元日刊スポーツのスポーツライター・荻島弘一氏の追悼コラム

「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ。飛んだ、決まった〜」

 半世紀以上前の遠い記憶が、鮮明によみがえる。72年札幌五輪スキージャンプ金メダリストの笠谷幸生さんが亡くなった。アジアで初めて行われた冬季五輪、冬季スポーツとは無縁で、札幌を遠く感じていた東京の小学生にとっても、笠谷さんは「スーパーヒーロー」だった。

 休み時間、実況放送を真似ながら踏み切り、友人に前から支えてもらって前傾姿勢をとると、もう1人がズボンの裾を持って風でなびいているようにひらひらと動かす。そんな「笠谷ごっこ」まで流行った。銀の金野昭次、銅の青地清二との表彰台独占。「日の丸飛行隊」という言葉の響きが心地良かった。

 強化コーチや全日本スキー連盟の要職を歴任した後、日刊スポーツの評論家を務めていた時に担当する機会があった。先輩記者に「寡黙で難しい人だから、失礼のないように」と言われたが、何よりも自分にとっては「スーパーヒーロー」。会社の会議室で、緊張しながらも楽しみに待っていたのを思い出す。

 確かに饒舌ではなかったし、無言のままテレビに流れるジャンプの映像を凝視する時間も長かった。それでも、質問をすれば分かりやすく、時に笑顔をまじえながら話してくれた。選手に対して厳しい指摘もしたが、その裏には愛情を感じた。競技の実績だけでなく、その対応も「スーパーヒーロー」だった。

 もちろん、札幌五輪の感動も伝えた。あれを機会にジャンプ競技を知ったこと、冬季五輪を知ったこと、そんな一方的な記者の話を黙って、それでもうれしそうに聞いてくれた。すると、こちらの話を遮るように「でも」という言葉が返ってきた。「90メートルは勝てなかったからね」。意外だった。

 札幌五輪のジャンプは、70メートル級(現ノーマルヒル)と90メートル級(現ラージヒル)が行われた。笠谷さんが日本の冬季五輪史上初の金メダルを獲得したのは大会序盤に行われた70メートル級。その後の90メートル級は1本目に2位につけながら、逆転を狙った2本目は横風にあおられて7位に終わっている。

本当に欲しかったのは90メートル級の金メダル

 ジャンプ競技は冬季五輪の第1回の1928年大会から行われているが、当初はラージヒル1種目だけ。70メートル級は64年からで、札幌は3大会目だった。「90メートルで勝たないと、ダメなんだ」。70メートル級が「おまけ」とまでは言わないが、本当に欲しかったのは90メートル級の金メダルだった。素人にとっては同じようにも思えるが、ジャンプを突き詰めるとラージヒルなのかもしれない。

 笠谷さんは根っからのジャンパーだった。「より遠くに」「より美しく」飛ぶのが、この競技。「世界一美しい」飛型と言われながらも、常に「世界一遠くに」と考えていたに違いない。だからこそ、70メートル級の金メダルよりも「本番」の90メートル級で金に届かなったことを悔やんでいたのだろう。

 昨年10月に札幌が30年冬季五輪招致を断念した時、「残念、でも無理して(開催)することもない」という淡々としたコメントが報じられた。もし開催されれば、その偉業が再び注目されただろうが、そんなことにも頓着しないのも笠谷さんらしい。

 日本選手の五輪表彰台独占は過去6回。夏季は競泳と体操の「お家芸」で計5回あるものの、冬季は「日の丸飛行隊」が唯一。「もう、みんな忘れているよ」と自嘲気味に話していたが、記憶にも、記録にも残る偉業だった。72年札幌五輪で栄光とともに悔しさを味わっていた「スーパーヒーロー」笠谷さん。今ごろは、先に天国にいった青地さん、金野さんとともに元祖「日の丸飛行隊」として思う存分飛んでいるに違いない。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。