戦国時代に今川氏が築いたとされる、現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある「鳥羽山城(とばやまじょう)」は、隣接する「二俣城(ふたまたじょう)」とは対象的に、豪華な石垣による道と門が印象的でした。「魅せること」と「暮らすこと」に徹した山城へ、スーパーカブで訪れました。

天然の要害に築かれた、ふたつの山城

 現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある「鳥羽山城(とばやまじょう)」へ、スーパーカブで訪れました。歩いて行けるほど近い距離に「二俣城」があり、どちらも1560年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」を契機として、今川氏によって築城されたと解説板には書かれています。

徳川家康とゆかりの深い「鳥羽山城」は、「二俣城」と合わせて機能していたと考えられている。城郭間は徒歩でも行けるくらい近い
徳川家康とゆかりの深い「鳥羽山城」は、「二俣城」と合わせて機能していたと考えられている。城郭間は徒歩でも行けるくらい近い

 1568年、今川氏の滅亡により徳川家康が両城を領有することになりますが、1572年の「三方原(みかたがはら)の戦い」で浜松まで侵攻してきた武田信玄に敗北し、これらの城も攻略されてしまいます。

 しかし信玄が病死して戦況は一変します。1575年には「長篠(ながしの)の戦い」が勃発し、徳川と武田による激しい攻防戦が展開され、武田方の「二俣城」を攻めるために「鳥羽山城」に徳川方の本陣が置かれたと言います。

 その後、武田は滅亡し1590年までは両城を徳川が領有。家康の関東移封(豊臣秀吉から関東に本拠を移すことを命じられて江戸へ移った)に伴い、豊臣系の大名である堀尾吉晴(ほりおよしはる)の弟、宗光(むねみつ)が城主となりました。

本丸東側にある石垣を眺めながら大手道を歩く。ほぼ加工されていない自然石を積み上げる「野面積み(のづらづみ)」も、優れた技術があるからこそ堅牢で美しい
本丸東側にある石垣を眺めながら大手道を歩く。ほぼ加工されていない自然石を積み上げる「野面積み(のづらづみ)」も、優れた技術があるからこそ堅牢で美しい

 現在見られる石垣はこの頃から築かれ、軍事的な機能に優れた城郭が整備された「二俣城」に対し、「鳥羽山城」は迎賓機能を持つ、領主の生活の場となったと見られています。機能の違いが顕在化した「別城一郭」と言われるスタイルが際立っている両城は、歴史的な価値が高いそうです。

 実際に両方の城を訪れてみると、その違いは明らかでした。

「二俣城跡」には本丸に石垣が残っていますが、城郭そのものの威圧感、容易には攻め落とせないことが石垣だけの姿からも感じられました。一方の「鳥羽山城跡」は、本丸に至る大手道からして荘厳な石垣に、思わず感嘆するほど美しいのです。

大手門の石垣の基部に、排水のための暗渠(あんきょ)の跡が残っている
大手門の石垣の基部に、排水のための暗渠(あんきょ)の跡が残っている

 行き着いた大手門は本丸の正門に当たる場所ですが、外枡形(そとますがた)の構造で、大手道に対して南向きに開いています。これは侵入してきた敵を打ち取るための効果的な構造としても有効ですが、一方で、平和的理由で迎えられた客人など、大手道を歩いてふと右を振り向けば華麗な大手門が見えるという仕組みでもあったのかもしれません。城を立派に見せるためにも有効だったのだろうと感じられました。実際、この門の石垣は他の場所より大きい石材を使い、高く築かれていたのです。

 残る石垣は美しいもので、本丸東側にはひときわ大きな石材が使われていたとも言われています。

1974年と1975年の発掘調査で明らかになった「枯山水(かれさんすい)庭園跡」。京都風の庭園と共通した作りで、石を組むことで滝や池のある風景を表現している
1974年と1975年の発掘調査で明らかになった「枯山水(かれさんすい)庭園跡」。京都風の庭園と共通した作りで、石を組むことで滝や池のある風景を表現している

 また、本丸の中には「枯山水庭園跡(かれさんすいていえんあと)」があります。これは滝や池のある風景を、水を使わずに表現する庭園です。山城の本丸にこのような庭園を設けているとは、注目に値するのではないでしょうか。

「鳥羽山城跡」は「鳥羽山公園」としても整備され、現役で稼働している全長20mのクッションローラー滑り台もあり、まさに平和的な城、という印象を強く受けました。