19歳でのデビュー以来、演歌歌手として華やかなキャリアを歩んできた坂本冬美さんですが、2002年に1年間、芸能活動を休業。その背景には、大切な人の死がありました。当時はその死を受け入れ、自分の心をゆっくりと癒やす時間が必要だったといいます。

あまりにも突然だった父の死「どんな言葉も耳に届かなかった」 坂本冬美さん人生のどん底を乗り越えた2005年頃の坂本さん

── 休業された当時の状況を伺ってもいいでしょうか?

坂本さん:デビュー11年目の1997年に、父が交通事故で亡くなったんです。釣りに行くと言って出かけたまま、車ごと海に消えてしまいました。あまりに突然の別れに、やり場のない悲しみが押し寄せ、周囲の慰めや励ましの言葉もいっさい耳に届かない状態でした。

とはいえ、3年先までスケジュールがぎっしり詰まっていたので、休むわけにはいきません。なんとか気持ちを奮い立たせてステージに立っていたものの、父の死を受け入れることができていない状態で人生の応援歌を歌うことが苦しくなってしまったんです。

愛する人を突然亡くすということは、時が解決してくれる部分もありますが、やはり、悲しみや苦しみといったものは、ずっとどこかで引きずってしまうものだと思うんです。父を亡くして寂しそうな母をひとりで置いておくのも心苦しく、時間の許す限り、実家に戻っていましたね。

坂本冬美さんとお母さん最愛のお母さまと

── ご自身の半生を描いた漫画のなかで、ご実家に心ない電話がかかってきた場面が描かれていましたね。読んでいて胸が苦しくなりました。

坂本さん:やっぱりこういう仕事をしていると、なかには、私に対して反感を持つ方もいらっしゃるのでしょうね。父を亡くして実家に戻っていたときに、知らない番号から電話がかかってきて、「ざまあみろ」と、言われたことがありました。

── 胸をえぐるような言葉ですね…。

坂本さん:さすがにこたえました。張り詰めていた糸がプツリと切れてしまった感じでしたね。たまたま私が電話を受けたからまだよかったものの、母が取っていたらと思うと…ゾッとします。

そのとき初めて、「芸能界で活動をしていると、知らないうちに人から嫌われたり、憎しみをぶつけられてしまうこともあるんだな」と痛感して。次第に身も心も疲弊していって事務所と相談し、決まっていたスケジュールをすべて済ませてから休業することに決めました。

2002年3月29日、最後のコンサートを終えた翌日、美容室へ飛び込み、「髪を結えないようにバッサリ切ってください!」と断髪式をしたんです。

── トレードマークだった長い髪をバッサリ切って、日本髪を結えないようにするとは、強い決意と覚悟を感じます。

坂本さん:じつは、芸能界に戻るつもりはなく、そのまま引退しようと考えていたんです。周りには、「せっかくここまでやってきたのにもったいない」と言われ、先輩方も心配してくださいましたが、自分のなかでは、もう限界でした。

髪を切ってショートカットにしたときは、肩の荷が下りてホッとしました。解放されたような気持ちでしたね。

2002年に休業も重病説に極秘出産説、死亡説まで飛び出して

── 突然の休業宣言に、いろんな憶測が飛び交いました。重病説や極秘出産、なかには死亡説を報じるメディアまで…。どんなふうにごらんになっていましたか?

坂本さん:そりゃあビックリしましたよ。「え!? 私、死んだ?いや、ここにいるんだけど?」って。極秘出産説はなぜか今でも根強くささかれているみたいですけど(笑)。残念ながら子どもはいませんが、もしいたら、どんなに嬉しいだろうと思いますね。

いろんな報道が出て、戸惑いはしましたが、怒りの感情はなかったです。逆に「ありがたいなあ」と感じていました。

── なぜでしょう?むしろメディア嫌いになってもおかしくない状況だと思うのですが。

坂本さん:そもそも私があいまいな状態で舞台から去ったから、皆さんをモヤモヤさせてしまい、その結果、いろんな憶測を呼んでしまったわけです。

それまで、「たかが15年間しか活動していない歌手のことなんて、みんなすぐに忘れてしまうだろうし、自分はその程度だろう」と考えていたけれど、私がいなくなっても、こうして話題に取り上げてもらえるということは、世間の皆さんから、ちゃんと歌手として認められていたんだなと思ったんですよね。

休業中に聴いた『岩壁の母』に衝撃を受けて

── 休業中は、どんなふうに過ごされていたのですか?

坂本さん:実家に戻り、母とゆったりと過ごしました。猪俣公章先生のお知り合いのご夫婦と一緒にアメリカにも行きましたね。グランドキャニオンでは、雄大な大自然に圧倒され、自分の悩みがちっぽけに感じられて。そんなふうにして過ごしているうちに、少しずつ気持ちが癒えていきました。

坂本冬美さんグランドキャニオンをバッグに

──「一時は引退も考えていた」という坂本さんが、ふたたび歌と向き合う決意をされたのは、なぜだったのでしょう?

坂本さん:実家でテレビを見ていたとき、歌手の二葉百合子さんが、芸能生活65周年のリサイタルで『岸壁の母』を歌っていらしたのですが、それが胸に突き刺さるような力強い歌声で。凛としたその姿に胸を打たれたんです。何十年も歌い続けている『岸壁の母』は、ものすごく説得力がありました。それに比べ、たかだか15年でギブアップしている自分はなんて情けないんだろうと。

── いったんマイクを置いたものの、ご自分のなかで、「歌いたい」という気持ちが再燃したのでしょうか。

坂本さん:きっと「もう歌いたくない」という気持ちと「歌が大好き」という気持ちで、揺れ動いていたのでしょうね。なにせ子どものころから私には歌しかありませんでしたから。

「二葉先生のもとで修業させていただき、出直すことができたなら…」。そう思って、先生に手紙を書いたのですが、実際にポストに投函するまでは、かなりためらいました。

坂本冬美さんと二葉百合子さん今年3月、恩師・二葉百合子さんと成田山新勝寺にお参りへ

── それはなぜでしょう?

坂本さん:歌を再開するということは、いったん降りた舞台にまた上がるということになります。とはいえ、まだそこまで心の準備が追いついていない自分もいました。ですから、「本当に歌えるの?またステージに立てる?」と自問自答を繰り返しましたね。

ずっと歌うことへの怖さがありました。デビュー以来、自分の歌に自信が持てず、つねにコンプレックスがあったんです。基礎からきちんと習ってきたわけではないし、喉も強くない。「他の人は朝からあんなに声が出るのに、私はなぜ出ないのだろう」と人と比べて悩んだこともありました。

── ご自分の歌にコンプレックスを持っていらしたとは、意外です。

坂本さん:ずっとコンサートをやってきて、自分の声帯のことはよくわかっていますから。コンサートでも3日以上はきつかったり、声の出づらい日があったりと、不安定な面があったんです。

二葉先生は、そんな私を「歌の壁にぶつかったのね。それは成長の証よ」と励ましてくださいました。うまく歌おう、聴かせようとするのではなく、つねに同じ気持ちで心をこめて丁寧に歌うことが大切よと。

しばらくお稽古に通ううちに、自分のなかで「よし!」という手ごたえを掴むことができたんです。

── どんな感覚だったのでしょうか?

坂本さん:自分の『夜桜お七』のCDに合わせて歌ったときに、一番高い音域が「当たる」感覚があったんです。ちゃんとした音が出せたので、「あ、これならいけるかもしれない」と思いました。それまでステージに立つ自信を取り戻せるか不安だったので、お稽古に通っていることは、誰にも内緒にしていたんです。

二葉先生という素晴らしい恩師に恵まれ、ようやく復帰に向けて歩き始めることができ、本当に感謝しています。

PROFILE 坂本冬美さん

さかもと・ふゆみ。1967年生まれ。和歌山県出身。1987年、19歳のときに「あばれ太鼓」でデビュー。『祝い酒』『夜桜お七』『また君に恋してる』など、数々のヒット曲を持つ。91年には細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成するなど、ジャンルを超えて活動。2024年2月に「ほろ酔い満月」をリリース。

取材・文/西尾英子 写真提供/坂本冬美