◇渋谷真コラム「龍の背に乗って」

◇4日 中日0−2巨人(バンテリンドームナゴヤ)

 松山の言葉は、結果で証明された。2日の夜、彼は僕にこう言った。

 「それはもう、どうでもいいんです。必ずやり返しますから」

 “それ”の意味を補う必要がある。その数時間前、NPBは公式記録の訂正をリリースした。3月29日の開幕戦(対ヤクルト、神宮)。1点リードの8回に登板した。先頭の村上を打ち取ったはずの飛球を、捕球体勢に入っていた遊撃・ロドリゲスがギリギリで体をかわし、人工芝ではねた。村上は二塁へ進み、松山は崩れた。一死も取れぬまま、マウンドを譲った。

 当日の記録員の判定は失策。それで気が晴れるわけではないが、4失点も自責点は1だった。ところが4日後に「安打と失策」に訂正。松山の自責点は4に増え、翌3日の失点も含め、27・00のはずの防御率も、67・50にはね上がった。打ち取ったはずなのにという思いと、そこで耐えられなかった自らのふがいなさ。そして突如数字が書き換わる不条理。あらゆる感情を、この日のマウンドにぶつけた。最速155キロとフォークで岡本和を遊ゴロ、坂本とオコエを三振に打ち取った。

 「思い通りにいかない試合が続いていたけどやっと開幕した。また投げる機会をつくってくれた首脳陣には感謝しています」

 開幕戦で辛酸をなめる。それは松山が尊敬する黒田博樹も経験したことだった。2004年4月2日の中日戦(ナゴヤドーム)で、黒田は前年に続き開幕投手を務めた。2回に大量5点の援護をもらいながら、6回に追いつかれ、7回に勝ち越された。7回途中を8失点。著書の『決めて断つ』にはこう書いてある。

 「ショックだった。何か解決策はないかと、打たれた2日後には投球フォームを動作解析してくれる専門家の方に電話をしていた」。偶然目にした雑誌に載っていた面識のない人だった。

 松山もこの間にオリックス・平野佳に助言を仰いだ。全力で出口を探す。それがプロ。「たくさんの(厳しい)コメントがあった。でもそれが僕の励みになった。あれがあってよかったと思える年にしたい」。防御率は下がってなお27・00。負けている8回が出番でないことは、彼が一番よくわかっている。