華やかに見える芸能界だが、落とす影は不気味なほどに暗い――。いつの頃からか大衆はその事実に気づき始めた。日本映画界を代表する時代劇スターの1人、長谷川一夫が若き頃に見舞われた凄惨な事件も、芸能界の闇を物語る出来事として今に語り継がれている。戦前から戦後にかけて300本以上の作品に出演した天下の二枚目俳優、その左頬に浮かび上がる傷跡の理由とは。

(「新潮45」2006年1月号特集「総力特集 昭和&平成 芸能界13の『黒い報告書』」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです。文中敬称略)

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生々しく浮かび上がった傷跡

 昭和39年放映のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」は視聴率30%を超える大ヒットとなったが、その功労者は言うまでもなく、大石内蔵助を演じた「国民的二枚目」長谷川一夫である。

「おのおの方」と声色たっぷりに呼びかけるせりふはその年の流行語になったほどで、まさにハマリ役だったのである。

 その前年の昭和38年、55歳で映画界を引退した長谷川一夫が初めて出演したテレビドラマが、この「赤穂浪士」だった。彼は、銀幕のスターからお茶の間のスターへと鮮やかに転身したのである。

 だが、茶の間の視聴者たちは、画面に映し出される長谷川の凜々しい壮年の顔にわずかな疵があるのを見逃さなかった。入念にメーキャップが施されていたからさほど目立たなかったが、それでも、ちょっとした光線の具合で、左頬に残る傷跡が生々しく浮かび上がった。

傷があるから俺の芸はようなったんや

「鏡を見るたびにあの事件を思い出す。この傷は治さない。傷があるから俺の芸はようなったんや。もしあのときいい気になっていたら今日はなかった」

 長谷川自身は、こう言ったといわれるが、役者生命を危機に晒したこの事件は、戦前の黎明期の映画界の暗黒部分を物語る汚点として、今に語り継がれている。

 明治41年、京都府下で非嫡出子として生まれた長谷川一夫は、大正7年、10歳で関西歌舞伎の大御所、成駒屋初代中村鴈治郎に弟子入りし歌舞伎修業を積んだ。女形が多かったが、時折演じる男役がまた、水もしたたる美男ぶりだった。

 昭和元年12月、18歳の時、師匠の中村鴈治郎のすすめで松竹キネマに入社し、映画界入りする。芸名は、鴈治郎がつけた林長二郎。翌年のデビュー作「稚児の剣法」が大ヒットし、その美貌と華麗な立ち回りで、文字通り、松竹時代劇映画の看板役者となっていった。

“忘恩の徒”に誹謗中傷

 だが、人気が出れば出るほど、長谷川の中には松竹への不満が募った。ひとつは金である。彼が松竹に在籍していたのは11年間だが、その間、給料は入社当時のまま250円に据え置かれていた。ライバルの片岡千恵蔵1500円、大河内傳次郎1000円の時代に、である。

 さらに、20歳で舞台に戻すと、師匠の中村鴈治郎と松竹の間で約束ができていたはずなのに、それが反故になったことも、長谷川の不信を買った。

 そこへ近づいてきたのが東宝である。東宝は、総帥・小林一三が直々に長谷川と交渉を進め、昭和12年10月、長谷川29歳の時、専属契約を結んだ。

 松竹とは前月の9月に契約が切れていたものの、“後ろ足で砂をかけられた”形の松竹は当然激怒、マスコミもこの“忘恩の徒”に誹謗中傷を浴びせ、銀幕のスターは一転、悪役となってしまった。

 このトラブルは家庭生活にも影響した。長谷川は、昭和5年に中村鴈治郎の次女・たみと結婚、一男一女をもうけたが、彼女も松竹残留を主張したため二人の間で大ゲンカとなり、後に離婚してしまう。

傷口に指がめり込む

 そして運命の11月12日である。東宝移籍第一作の「源九郎義経」の宣伝スチール写真の撮影のため京都の撮影所に入った長谷川は、夕方、撮影を終え、宿泊していた東宝専務の別邸に帰宅するところだった。

 途中、暗がりから、「林さん」、そう呼ばれて振り向いた瞬間、真っ黒な塊が長谷川にぶつかり、顔に焼けつくような痛みを覚えた。必死にマフラーで払いのけると、黒い塊は一目散に逃げ出した。

 長谷川は左頬を押さえてうずくまったが、その手と言わずマフラーと言わず着物の袖口と言わず、温かいねっとりとした液体がしたたり落ちた。それは真赤な血だった。恐る恐る左頬に手をやると、中指と人差し指がずぶりと2、3センチもめり込み、激痛が全身を貫いた。

 撮影所から差し回された自動車に乗り込み、病院に直行しようとしたが、長谷川は何を思ったか車を降り、「鏡を、鏡を見てきます!」と叫んで俳優部屋に駆け込んだ。そこには大きな姿見があった。

京都の街をかけ巡った号外

 鏡に見入った瞬間、長谷川は、自分の俳優生命は終わったと観念した。そこには、ざくろのように無惨に切り刻まれた左の頬が映っていたのである。

 病院で診察を受けた結果、傷口は二筋あり、一筋は左目の下から上唇にかけて12センチ、もう一筋は、左目の下から頬にかけて10センチ、深さは2センチにも達していた。犯人は、安全剃刀を二枚重ねにして切りつけたらしい。

「長二郎切られる」の報は号外となって京都の街をかけ巡った。

 絶対安静、面会謝絶の病室で、長谷川は気が塞ぐばかりだった。しかし、演技のことに思いが及ぶと不思議に元気が出た。彼は、自分が被った刃傷沙汰さえも演技にいかそうと考えた。

(そうだ。忠臣蔵の浅野内匠頭を演った時、松の廊下で「お難しくだされ!」と叫びながら上半身を前へ前へと倒していったが、実際は逆だった。止めに入る人が大勢いるのだから、上半身はむしろ、後へ倒れるくらいが本当だ。そうだ、この次にはこれでやってみよう!)

 だが、この傷では再び演技をすることなど叶わないと我に返っては、包帯でぐるぐる巻の傷の上に涙をこぼした。

事件を表沙汰にしないでください

 事件から4日後の11月16日に犯人が逮捕された。朝鮮生まれの元運転手・中島金郎こと金成漢という23歳の男だった。そして25日には、松竹系の新興キネマ常務取締役の永田雅一が警察に召喚された。事件の黒幕と見られたのである。

 続いて、増田三郎、笹井栄次郎なる人物が勾引された。笹井は、新興キネマの用心棒だった男で、永田の意を受けて増田に犯行を命じた。その増田はさらに、知り合いの金に長谷川を襲わせたという。しかし、誰の目にも黒幕と思われた永田は不起訴となり、笹井、増田、金の3名が起訴され、笹井は1年、増田、金はそれぞれ2年の懲役刑に処せられた。

 現在では、実行犯は増田で、金は単なる身代わりではなかったかとも言われているが、結局、背後関係がうやむやのまま幕引きとなった。

 そこには、被害者である長谷川の意向が強く反映されていたのである。彼は警察の聴取に対し、こう懇願していた。

「事件を表沙汰にしないでください。私さえ我慢すればこんな不祥事は私を最後になくなるでしょう。相手方を追及して背後関係を明らかにすれば、かえって大きな問題になり、私の立場もなくなる」

芸名返上を迫られ、本名の長谷川一夫で復帰

 懸念された顔の傷は思いのほか治りが早く、1カ月後には退院にこぎつける。傷跡は確かに深く顔に残ってはいたが、時代劇の濃い化粧を施せばなんとか復帰は可能と思われた。

 翌昭和13年、長谷川は菊池寛原作の「藤十郎の恋」で再起を図った。撮影直前、松竹が林長二郎の芸名返上を迫ったため、本名の長谷川一夫での第1作ともなったが、興行的にもヒットし、長谷川も東宝も安堵の胸を撫で下ろした(これでわかる通り、移籍に伴う芸名返上騒動は加勢大周が初めてではない)。

 以降、最後の作品「江戸無情」まで、映画の主演作は301本にのぼり、昭和を代表する時代劇俳優となった。

 傷については、終生これを気にして、

「私は左の頬の傷をメーキャップするのに1時間かける。だから私には一日23時間しかない」と言うほどだった。

 ところが、事件そのものについては口を閉ざし続け、戦後の昭和25年にはなんと、永田雅一が社長を務める大映に入社し重役に就任。事件の黒幕と言われた男と手を握ったのである。

芸能界の底知れない無気味さ

 事件には実はこんなオチもあった。長谷川が林長二郎だった当時、祇園に惚れた芸妓がいたのだが、その同じ芸妓に永田雅一も熱を上げていたというのである。そうした私怨も絡んで、永田が事件を仕組んだという。この芸妓は後に永田の妻となった。

 しかし長谷川は、家族や友人が事件について話を蒸し返そうとしても、「もうすんだことだし、私が犠牲になったことで映画界が近代化されたのだから」と言って取り合おうとしなかった。

 確かに、長谷川の事件以後、移籍に絡んだ暴力沙汰は根絶されたが、自分の顔を切り刻んだ黒幕と手を握るという意外な顛末に、芸能界の底知れない無気味さを感じた者もまた多かった。

 晩年も、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」(初演、74年)の演出を手がけるなど華やかな話題をまいた長谷川一夫は、昭和59年、76歳で死去した後、国民栄誉賞を受賞した。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部