宮藤官九郎さん脚本・阿部サダヲさん主演による「不適切にもほどがある!」が大人気だ。

 若者のテレビ離れ、原作実写化は問題だらけ、コンプライアンスに縛られ制作陣は及び腰。八方塞がりのドラマ界を逆手に取ったかのように、「昭和のダメ親父が令和にタイムスリップして大暴れするオリジナルドラマ」とは痛快である。(以下、「不適切にも〜」ほか、宮藤作品のストーリーに触れる文章があるので、ご注意ください)

 昭和世代ならニヤリとする小ネタを散りばめた演出は令和のSNSを席巻し、放送するたびにネットニュースは大盛り上がり。Netflixでは国内ランキング3週連続1位、Tverでもお気に入り登録者数が今クールドラマ1位の129.1万(2月28日現在)とあって、幅広い世代の注目を集めているようだ。

 しかし熱狂する視聴者に水を差すかのように、「若者層は脱落気味」「(注意書きのテロップがあるとはいえ)首をかしげるようなセリフやハラスメントシーンにギブアップ」と指摘する記事も出始めた。確かに視聴率は下がってきている。関東地区での世帯視聴率を見ると、初回の7.6%から、7.1%→ 7.1%→6.7%と微減。ただしこれについては、録画して楽しみに見ている層が増えているという見方も可能だろう。

 あの頃は楽しかったと、ノスタルジーに浸れるドラマ。それに比べて今は息苦しいんだよなと、ガス抜きをさせてくれるドラマ。だから、昭和世代はハマるが若者にはピンとこない。その分析には確かにうなずける。ただ筆者は、もうひとつ違う視点を挙げたい。これは現実ではうだつの上がらない中高年が、異世界転生したら大活躍という「なろう系」の要素を持ったドラマだからではないかと。就職氷河期世代はもとより、「おじさん・おばさん」への風当たりはますます強くなっている現代。そんな風潮を悲しいが仕方ないとあきらめつつも、どこかあきらめきれない思いを抱えた人ほど、主人公・市郎に肩入れしたくなってしまうのではないかと思うのである。

昭和脳おじさんという設定ながらモテる市郎 若者世代よりも秀でたある「力」とは

 セクハラ・モラハラに対する意識が発展途上にある市郎の、物言いは確かに乱暴だ。だが、その率直さが評価され、令和ではキー局カウンセラーに大抜てきされている。本人にまるでその気がないのにモテモテになる様子は、まさに「なろう系」主人公っぽいなと思う。というか、エリートビジネスマンというくくりながらド級のセクハラ発言が散見される「島耕作」を見てきた筆者としては、むしろ市郎がマイルドに見えてくるくらいだ。

 市郎のすごさはその自己開示力にある。馬鹿にされそうと尻込みすることなく、スマホの使い方がわからなければ若い女性に聞くことをいとわない。セクシー女優に興奮しながら娘の貞操には目を光らせるダブルスタンダードを、フェミニストの女性学者に指摘されても逆ギレしない。自分だけ分からないのはさみしい、娘に嫌われるのはさみしい。自分の弱さを素直にさらけだす人の話は、こちらも身構えずに耳を傾けることができる。

「話し合えばいい」「SNSは本気でやっちゃダメ」とドラマ内で歌われていたが、それだけ現実では自己開示ができない人の多さを物語っているともいえるのではないだろうか。本音を言って傷つきたくないと尻込みするのは、昭和世代に限らず若い世代に顕著な特徴でもある。

 ドラマ内でも仲里依紗さん演じる犬島渚が、仕事にも育児にも後輩指導にもフル回転しても報われない虚しさに、ひとり涙をこぼすシーンがあった。周囲も悪意があったわけではないと分かるからこそ、自分が抱え込むしかない辛さ。それは第1話でメンタル不調を訴えた、磯村勇斗さん演じる秋津真彦の後輩女性にも重なる。「どうせ分かってもらえない」と自己完結してしまう若者たちの姿は、「何を言ったって老害だのハラスメントだのって言うんだろ」とふてくされる昭和世代の映し鏡ともいえる。

 令和ではオフィシャルの場でのお行儀の良さが厳しく求められるようになった反動か、SNSを開けばマウンティングに論破合戦、バイトテロにかわいい私アピールの嵐。みんな自分がいかにすごいかを誇示する、今や空前の「俺の話を聞け」時代だ。

 一方、ドラマの主な支持層は、語ることさえ臆病にならざるを得ない世代といえる。「老害」とか「お局」とか「おじさん構文」とか、口を開けば厄介者扱いという被害者意識を抱えている人も多いだろう。

 異世界で一発逆転できないことなんて百も承知。ただせめて、さみしいって言っちゃダメですか? 辛いって言っちゃダメですか? 若者層は脱落、というドラマ批評記事にかみ付くコメントの多さを見るたび、自由に思いを語れる数少ない場所を奪わないでという、悲痛な本音がにじみ出ているように感じるのである。

地方の若者、家業への葛藤、母親の死……「取り残された人たち」を描いてきたクドカン

 ちなみに宮藤さんは「取り残されてしまった人たち」にずっと目を向けている人だと思う。「木更津キャッツアイ」のように、交通網開発によってシャッター商店街化が進んでしまった東京近郊の若者だったり、「俺の家の話」のように最盛期が過ぎたことを自覚したプロレスラーだったり。過疎に悩む地方が舞台の「あまちゃん」には東日本大震災のシーンもあった。政治とか年齢とか自然災害といった、自分ひとりではどうにもならない力によって、ある場所に踏みとどまざるを得なかった人たちを描いてきたように思うのだ。「不適切〜」も、時代に取り残された男性の奮闘劇という軸がある。

 また「母から取り残される子ども」という設定も多い。「不適切〜」ではヒロイン・純子の母は亡くなっているが、母と死に別れている主人公は他にもいる。「木更津〜」で岡田准一さん演じるぶっさんや「タイガー&ドラゴン」で長瀬智也さん演じる山崎虎児。ちなみに長瀬さんは「俺の家の話」でも実母が病に倒れているという役だった。

「取り残された人たち」は、社会や時代の大きな流れに対して語る場も言葉も持たない。無条件に話を聞いてくれるはずの母が不在の家庭で、子どもたちはあきらめと背中合わせの大人びた雰囲気を身に付けていく。しかし必要以上にお涙頂戴の演出には使わないのがクドカン流。主人公が死ぬことさえあるが、自分の現在地に卑屈になりすぎることはなく、みんなカラッとしている。仕事に励み、恋をして(不倫するキャラも多い)、地元の悪友や家族と笑い合う。巨悪を倒すとか、大富豪になるといった大きなカタルシスとは無縁の生き方だが、だからこそ日々の「心許せる相手と心置きなく話せる」ことの尊さと普遍性を、宮藤さんは静かに提示し続けてきたのではないだろうか。

 失われた30年を生きてきた世代もまた、「安心・安全」な未来から取り残された人でもある。自己完結グセを身に付け、腹の探り合いばかりしてしまう。でも、それに疲れているのは、昭和生まれだけではない。平成生まれもきっと同じはずだ。

「不適切〜」はコンプラ表現や昭和ネタばかりが取り沙汰されるが、誰かと比べて自分の価値や本音を封じ込めることの痛ましさも描いている。それは世代や性別を問わず、自己完結して自家中毒を起こしがちな人にこそ届くべきメッセージだろう。若者層との意識差ばかり論じ、昭和世代のノスタルジードラマという枠に押し込めてしまうことこそ「不適切にもほどがある」のではないだろうか。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部