『天守物語』『滝の白糸』『荒野聖』など、泉鏡花の小説を原作とした映画やドラマ、演劇、歌舞伎の作品は数多い。作家と芸者の悲恋がテーマの1つである『婦系図』もそんな一作である。これまで様々な名優たちが出演した作品ではあるが、そもそも鏡花が執筆した動機は、師匠である尾崎紅葉への“復讐”だったとも。実は鏡花、実際に芸者と恋に落ち、紅葉にその仲を裂かれているのである。だが、現実で迎えた結末は、悲恋小説とは正反対だったようだ。

(「新潮45」2006年6月号特集「明治・大正・昭和 文壇『男と女』13の愛憎劇」掲載記事をもとに再構成しました。文中敬称略)

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鏡花が迫られた究極の二者択一

「俺を棄てるか、婦を棄てるか」
「婦を棄てます」

 泉鏡花の代表作『婦系図』に出てくる有名なシーン。のちに新派劇の定番となり、市川雷蔵の映画にもなった作家と芸者の悲恋物語は、鏡花の実人生が反映されたものだった。

 鏡花が神楽坂の芸妓、桃太郎と出会ったのは明治32年1月、鏡花26歳、桃太郎17歳のときである。当時鏡花は、「金色夜叉」で一世を風靡し流行作家となっていた尾崎紅葉の弟子として、紅葉が主宰する文学グルーブ硯友社に属していた。

 一目見たときから心惹かれあい、やがて同棲を始めた鏡花と桃太郎だが、師の紅葉は2人の仲を知ると激怒した。そして冒頭の言葉。鏡花は究極の二者択一を迫られ、文字通り泣きながら桃太郎と別れることを決意したのである。

 だが、なぜ尾崎紅葉は2人の仲を裂こうとしたのか。それを理解するには、当時の文学界独特の師弟関係や時代背景を知る必要がある。

師弟関係に厳格だった紅葉

 泉鏡花は明治6年、石川県金沢市に生まれた。16歳のときに友人の下宿で尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」を読んで感激し、文学を志すようになる。明治23年に上京、その翌年紅葉宅を訪ね、入門を許され、紅葉の内弟子として書生生活をスタートした。

 当時は、各種新人賞が乱立する現在と違い、小説家になるには誰か有力な作家の門人になるほかはなかった。門人といっても、実質は玄関番や雑用に使役されることの多い、厳しい徒弟修業の身の上である。とくに尾崎紅葉は師弟関係に厳格だった。

 のちに鏡花は修業時代を振り返り、「小言なり仕付けなりが厳格ですから、始めから心底崇拝して薪を樵り水を汲む考へのものでなければいけなかつたし、又第一さういふ考へのものでなければ続かなかつたのです」(「紅葉先生の追憶」)と語っている。

 封建的ともいうべき文学的徒弟制度。門下生は会合に出かけても師と別れて廊下の端を歩き、常に下座に位置し、紅葉が銭湯に行くときはその身体を流すのだった。そのかわり紅葉は、弟子たちの原稿の売り込みや作品の添削など文学面での面倒見はよかった。

死別した母と同じ名前の女性

 文学修業を経て、鏡花が『夜行巡査』『愛と婚姻』などで一躍新進作家として認められるようになったのは、紅葉の様々な後ろ盾があってこそだった。つまり鏡花にとって紅葉は、人生全てにおいての絶対的な師であったのである。

 鏡花が神楽坂の芸妓、桃太郎と知り合ったのは、硯友社若手の新年会の席だった。

 桃太郎の本名は伊藤すゞ。父親が早くに亡くなり、芸者に出た母親はある豪商の妾になった。しかし5歳のときにその商人が破産。彼女は芸妓屋に売られ、母親は行方不明。吉原仲之町で育ち、やがて神楽坂の芸妓屋で働くようになった。

 彼女の人となりを伝えるものは少ないが、おとなしい顔立ちの、芯はあるが内向的な性格の女性だったようだ。ちなみに、すゞという名前は、偶然にも鏡花が数え年10歳の時に死別した生母と同じ名前である。

庭先の物干し竿にかけられた腰巻

 鏡花はなぜか、桃太郎の存在を師の紅葉に隠し続けていた。紅葉が2人の仲を知ることになったきっかけは諸説あるが、弟子の一人は次のようなエピソードを残している。

 明治35年の夏、鏡花は病気の療養をかねて逗子で避暑生活をしていた。桃太郎も何日か訪れ、身の回りの世話をしていた。そこへ紅葉が突然訪問する。

 道をやって来る紅葉の姿を見つけた仲間の1人が大声を出し、皆で慌てて桃太郎を隠そうとする。桃太郎を裏口から近くの農家に逃がし、感づかれそうな品々を隠し回った。

 紅葉が座敷に上がり、ふと庭先を見ると、物干し竿に腰巻がかかっている。「あれは誰だ?」と問う紅葉に、台所手伝いに来ていた知人女性の名を告げるが、「素人の女が紐のない腰巻をしめるはずがない。あれは商売女のものにちがいない」と激怒。紅葉はこのとき鏡花の陰にいる芸妓の存在にうすうす感づいていたという。

紅葉自身も神楽坂の芸者を囲っていた

 やがて明治36年4月、鏡花が桃太郎を落籍し同棲している事実をつかんだ紅葉は、鏡花を呼びつけて激しく叱責する。その様子は、紅葉自身の日記にこう記されている。

「暱妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉(弟子の一人)又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折艦す。十二時放ち還す。疲労甚だしく怒麗の元気薄し」

 なぜ紅葉は2人の仲を嫌ったのか。表向きは、愛弟子の文学的人生を危惧した親心から出た行為だったとされている。芸者にうつつを抜かし身を滅ぼして鏡花の文学が横道に逸れることを畏れたのである。

 だが鏡花と桃太郎の恋愛は、単なる遊びではなく真摯なものだった。

 もとより紅葉自身、神楽坂の芸者を囲っていた。小ゑんと呼ばれる芸者で、彼女は紅葉臨終の場へ同席するなど、半ば公に認められた存在でもあった。だが紅葉には、芸者を人間的に一段下に見る傾向があった。

鏡花の態度そのものに憤激した説も

 結婚について紅葉が記した一文がある。それには、「(妻たるべきものは)温かな両親の間にうまれて、温かな家庭の教育を受けた者でなくては宜(い)けない。斯(そ)ういう女は米の飯のようなものだ」と、およそ世俗的な文言が綴られている。

 紅葉にしてみれば、芸者などは妻になるべき女性ではなく、愛弟子がそのような女性と一緒になること自体が我慢ならなかったのだろう。一説には、師の自分に一言も相談せずに同棲を始めた鏡花の態度そのものに憤激したという話もある。

 あるいは、芸妓を落籍するなどまだ身分不相応、身の程知らずだと考えていたのか。「婦系図」の中で、鏡花は紅葉をモデルにしたと思われる人物に、こんな激しい啖呵を吐かせている。

「汝が家を野天にして、婦とさかつて居たいのだらう。それで身が立つなら立つて見ろ。口惜しくば、おい、恁(こ)うやって馴染の芸者を傍に置いて、弟子に剣突をくはせられる、己のやうな者に成って出直して来い」

「先生は鏡花君にとつて至上権威」

 いずれにせよ、紅葉は鏡花を叱責し、鏡花は師の言葉に従った。

 このときの様子を、紅葉の弟子の1人であった徳田秋声は、「先生は鏡花君にとつて至上権威なので、辛かつたと見えて泣いてゐた。私達も強ひては言へなかつた」と書き残している。

 一方、別れを伝えられた桃太郎はどうだったのか。鏡花はのちに、芝居用に書いた「婦系図」のシーンで、その時の2人のやりとりを、こんなふうに再現している。

「切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時にいうものよ。私にゃ、死ねと言って下さい。(二者択一を迫られ)お前さん、女を棄てます、といったんだわね」
「堪忍してくれ。済まない。が、確かに誓った」
「よくおっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい」

 愛し合う2人の仲は師によって裂かれた。しかしこの悲恋には続きがある。

紅葉の存在が鏡花の文学を豊穣なものに

 2人を叱責した紅葉は、当時胃がんを患い病床に臥していた。余命はいくばくもなかったことは鏡花も知るところだった。

 半年後の明治36年10月、紅葉は弟子たちに見守られながら息を引き取る。享年35。

 その師の死を待っていたかのように、鏡花は桃太郎を呼び寄せ一緒になった。正式に籍を入れたのは大正15年。夫婦仲のよさは有名で、互いの名前を彫り込んだ腕輪を肌身離さず持っていたともいう。結局、2人は最期まで幸福に暮らし、添い遂げた。

 はたして鏡花は、死を迎えつつある師を思い、別れるふりをしたのであろうか。

 鏡花は明治40年、この悲恋物語を『婦系図』として書き上げた。師紅葉への“復讐”として書かれたとされる作品だが、皮肉なことに実生活の悲哀を補って余りある名作となった。真相はどうであれ、師尾崎紅葉の存在が、弟子である鏡花の文学を豊穣なものにさせたのは事実である。

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部