*グリコ・森永事件
1984(昭和59)年3月18日、江崎グリコ社長の江崎勝久社長(当時42)が3人組の男に自宅から拉致され、身代金10億円と金塊100キロを要求された。江崎社長は3日後に自力で監禁場所から脱出したが、「かい人21面相」を名乗る犯人グループは脅迫を止めず、スーパーなどに青酸入り菓子をばらまき、森永製菓、ハウス食品、丸大食品など大手食品メーカーを翌85年2月まで脅迫し続けた。威信をかけた警察の捜査は実を結ばず、2000(平成12)年2月、全ての事件の時効が成立した。

警視庁による職務質問

 1984年11 月のある夜――新大阪発の東海道新幹線が、終点の東京駅ホームに滑り込んだ。どういう理由か、ホームには制服警察官と、一目で私服とわかる刑事の姿が何人も目に付いた。ジャーナリストで放送評論家の小田桐誠氏(70)は、大きな事件の被疑者移送だろうかと思ったという。

 小田桐氏がホームに降りると、居並ぶ制服警察官の先頭に立った私服刑事が、警察手帳の恒久用紙第一葉を提示した。

「警視庁の者です。すみません、お話をうかがいたいので、八重洲口交番まで来ていただけないでしょうか?」

 何も思い当たるフシはない。理由や目的を訪ねても、刑事は「交番で」と言うばかり。仕方なく交番に行き、氏名、生年月日など、聞かれたことに答えた。自宅とは別に、仕事で使っている豊島区内にある事務所の住所を告げると刑事たちの表情が変わり、そのまま丸の内警察署への同行を求められた。

「ちょっと待ってください。今日は締め切りなんです。今から原稿を書かないと」

 小田桐氏は当時、週刊誌で「グリコ・森永事件」の取材・原稿執筆に追われていた。

「私と一緒に新大阪から乗った乗客が名古屋で降りたんですが、私が車内で大量の『グリコ・森永事件』関係の資料を広げて読み込んでいるのを見ていたのです。その人が、事件に関して見たこともない資料を持っていた、不審な男がいたと通報したのでしょう。その情報が愛知県警から警視庁に転送され、待ち構えていた警察官が私に声をかけたのです」(小田桐氏)

 同年10月22日、豊島区東池袋にあるファミリーマート埼玉・城北地区本部の郵便受けに、「どくいり きけん 食べたら死ぬで かい人21面相」と書かれた警告文と共に、青酸入りの森永製菓の菓子が送りつけられ、26日には一連の「グリコ・森永事件」で使われた青酸と同一であると確認されていた。小田桐氏の事務所は、その現場に近かった。八重洲口交番から丸の内警察署に場所を移してさらに話を聴かれたのは、そうした事情も関係していた。

 大阪府警と兵庫県警の合同捜査本部は10月15日、やはり青酸入り菓子が見つかった兵庫県西宮市内のコンビニ防犯カメラに映った「ビデオの男」の映像を公開している。だが、確実に菓子を置いている場面は映っておらず、捜査本部では「容疑者ではなく、事情を聴きたい身元不明の男性」と発表していた。

「さんざん事情を聴かれて、ようやく私の疑いは晴れましたが、事件は東京にも飛び火しており、警視庁としては大阪府警や兵庫県警のようにヘタを打つわけにはいかないという気概を感じました。万が一、私が犯人だったら大金星なわけで。だから、あそこまで念入りに調べたのでしょう」(小田桐氏)

 この時、世間は「どくいり きけん」の警告文と、公開された「ビデオの男」の話題で持ちきりだった。だが、捜査当局では「まちがいなく犯人グループの一人」と見ていた、別の男がいた――。

「金銭喝取趣旨とは別に、70数通にわたって報道機関宛ての犯行声明、警察を揶揄する挑戦状を送達し、報道を利用して社会不安を煽った(劇場型犯罪なる造語が生まれた)」(警察庁作成の資料より)未曽有の事件から40年がたつ。

キツネ目の男

 約9100件――。

 一連の事件が完全時効を迎えた2000年2月、警察庁が公表した「キツネ目の男」に関して寄せられた情報件数である。「グリコ・森永事件」と聞くと、真っ先に思い出すあの顔である(ちなみに「ビデオの男」に関しては、時効までに4100件)。

 この男の似顔絵が、大阪府警の捜査本部から公開されたのは、発生翌年の1985年1月10日。年齢は35歳から40歳。身長175〜178センチ。まゆは薄く、縁なしメガネの奥の目は細く吊り上がり、ウェーブのかかったくせのある頭髪。担当捜査員をして「90パーセント似ている」とされたこの似顔絵は、やはり未解決に終わった「3億円事件」(1968年)のモンタージュ写真と並び、いまも多くの日本人の脳裏に刻まれている。

 捜査員の間で、キツネ=FOXの頭文字をとって「F」と呼ばれていた男が目撃されたのは二度。一度目は1984年6月28日夜、犯人グループが丸大食品から5000万円を奪取しようとした際、東海道線内の車両や京都駅で目撃された。二度目は同年11月14日夜。ハウス食品に1億円を要求した際、現金運搬車が連絡場所の名神高速道路大津SAに着いた時にSA内で目撃された。

「デイリー新潮」では、2017年8月21日と22日に配信した「「グリコ・森永事件」で地を這った特殊班 現職を退いた刑事らが明かす秘話」」「グリ森「キツネ目の男」はおとり役だった? 公開されなかった“モンタージュ写真”」という2本の記事の中で、目の前でFを目撃した、元大阪府警捜査1課特殊班員の貴重な証言を紹介している。

「両手を広げ、背中を壁にピタリとくっつけてマルケイ(注・現金運搬役の捜査員)の動向を窺ったりする。まるで忍者モノのコントでも見ているような感じでした」

 それは「職務質問でもしてくれ」と言わんばかりの態度だったという。現場に警察官がいるかどうか、確認していたのではないかという見方もあるが、後に、二度も捜査員の前に姿を現しながら、その場で職務質問、任意同行しなかった点が批判されることになる。当時、大阪府警本部長として指揮をとり、昨年2月に92歳で亡くなった四方修氏は最後まで、

「キツネ目の男も、電車に乗っていただけ。職務質問しても証拠がなければ手も足も出ない。組織犯罪を検挙する時は、ある程度泳がして一網打尽にするしかない」(毎日新聞2000年2月12日付=大阪)

 と、捜査方針と、従事した捜査員への配慮とも思える考えを語っていた。

「似顔絵から受ける印象として、ふっくらした男性を連想してしまった人が多いかもしれない。Fは、すらりとした長身で、身のこなしが軽かった。京都駅の雑踏で特殊班員が見失ったのは、フットワークが巧みだったせいも大きい。後に、全身を描いた似顔絵も公開しましたが、最初の“顔”のイメージが強すぎたのか、確かに顔が似ていても、背格好が違う情報提供もありました」(元大阪府警幹部)

情報共有はされず

 被害者の江崎社長が拉致されたのは兵庫県、身柄が保護されたのが大阪だった。当初から兵庫県警と大阪府警は互いのメンツを重視し、独自に捜査を展開していたと言われている。

「神戸連続児童殺傷事件」(97年)を捜査一課長として指揮した元兵庫県警の山下征士氏は、「グリコ・森永事件」発生当時は鑑識課員として江崎社長宅の検証に立ち合い、後に捜査一課調査官として捜査に携わった。同氏は著書『二本の棘 兵庫県警捜査秘録』(KADOKAWA)で、こう明かしている。

〈似顔絵が公表される少し前に、当時の兵庫県警の調査官から「どうも似顔絵があるようだ」という話を聞かされたが、作成当初は大阪府警の捜査一課長にも伝わっていなかったと後になって知った〉

 同書によると、あれだけの規模の事件ながら、最前線の捜査員にもたらされる情報は限定的であり、特に兵庫県警以外の情報が降りてくることはほとんどなかったという。ある程度の幹部になって、合同捜査会議でようやく情報を得るが、それも限られたもので事件の詳細な全体像を把握していたのは、ごく一部の上層部だけだったという。

 大阪、兵庫だけでのべ約83万2000人の専従捜査員。お互いの対抗意識が輪をかけ、不審者を追う捜査で、同じ人物をそれぞれが独自に追うこともあったという。調整に入った警察庁の指示もあり、「ビデオの男」や「キツネ目の男」を公開、広く市民から情報を集める=市民の目と耳で「監視」する、という方針に切り替えたのだが、

「保秘を徹底するあまり、隣の捜査員が何をやっているのか分からない状態の中で、犯人を追うのは大変なストレスだったと思います。また、一般から情報を募ることも必要ですが、問題はその寄せられた情報を潰す作業に人と時間を取られてしまった。例えば、私もそうだったように、不審者がいるとなれば、それなりの警察官を配置し、時間を割いて話を聞き、その裏付けをとらないといけない。大変な作業に忙殺されてしまったのです」(小田桐氏)

 似顔絵公開後、愛知県や東京都で警告文の入った青酸入りチョコが発見(2月)、駿河屋への恐喝未遂事件(3月)などがあった後、犯人は動きを止めた(8月)。

「似顔絵の公開は、犯人の動きを封じ込めるには有効だったかもしれません。ですが、捕まえるためには相手に動いてもらう、つまり現金受け渡しのための現場設定が必要です。事件当初、取り引きで動きがあった時に捕まえられなかったのが悔やまれます」(小田桐氏)

後編【【グリコ・森永事件40年】最後まで残った江崎社長に着せられた“黒のオーバー”の謎】へつづく

デイリー新潮編集部