スクールカウンセラーとして16年間、小中高の子どもたちを見つめてきた藪下遊氏は、「自分の問題を認められない」親子が増えているという。不登校増加の背景を探る「『叱らない』が子どもを苦しめる」(筑摩書房、高坂康雅氏と共著)の著者が、今必要な親子の関わり方を解説する。【藪下遊/スクールカウンセラー】(全3回の2回目)

【友達に彫刻刀を突きつけた小3女児が、逆に「いじめられた」と訴え 不登校29万人超の背景に「問題を認められない」親子】のつづき

悪い点数のテストを見せない中学生

 子どもが怒ったり泣いたり否認したり、さまざまな反応を見せ、周囲の大人を手こずらせてきたとき、親がそれにどう付き合っていくかが大切になります。

 重要なのは、子どもが「問題」を前にしたときに生じる嫌な気持ちを、親子の関係性の中で納めていくことです。「関係性の中で納めていく」なんてキレイな言葉を使いましたが、実際には「ごちゃごちゃとしたやり取りを根気よく続ける」という表現の方がしっくりくることが多いですね。以下の事例を見て、何となくのイメージを掴んでもらえたら良いかなと思っています。

 中学校1年生の男子生徒の事例。初めての中間テストで、良い点数のテストは母親に見せるが、それ以外のテストは見せない。

 ある日、母親は子ども部屋のゴミ箱に悪い点数のテストがぐしゃぐしゃにして捨てられているのを発見する。スクールカウンセラーとの相談を経て、母親は子どもに「良いあなただけを見せてほしいんじゃない。悪い点数を取るあなただって大切に思っているし、悪いところを見せてもらえないのは親としては悲しい」と伝える。それ以降、子どもは自分に苦手な教科があることや、不得意なことを話すようになる。また、次のテストでは、躊躇いつつも、きちんと苦手な教科のテストも見せてきて、間違えた場所についてやり取りできるようになった。

粘り強い関わりから伝わるメッセージ

 この事例を読んで気づいた人もいると思いますが、この男子生徒はこころのどこかで「悪いところもわかってほしい」と思っていたのではないかと見立てられます。本当に悪いテストを隠すつもりであれば、自室とはいえわざわざ家のゴミ箱に捨てることはしないでしょう。見つかるリスクが高まりますからね。

 ですから、この事例のスクールカウンセラー(私です)は、きちんと「悪いところがあるあなたとも関わりたい」というメッセージを伝えるよう助言しましたし、その後の展開を見るとうまくいっているように見えます。

 文章では書ききれませんが、この事例でも、子どもが「うん、わかった! 次からは見せるね」とすんなり納得したわけではありません。「えー」「でもー」「知らない!」など誤魔化したり、そっぽ向かれたりされて親としては大変な思いをしつつも粘り強く関わっていきました。そして、そういう「ごちゃごちゃとしたやり取りを根気よく続ける」ことを通して、「問題のあるあなたであっても、関わり続ける意思がある」ことを示し続け、その積み重ねが子どものこころの支えになっていったと思われます。

 また、親子間が不穏な雰囲気になっていたとしても、親は子どもの世話を何だかんだ言いながらもやるものです。ご飯は用意するし、お風呂の世話をするし、朝は起こすし。そうやって、「子どもの問題」に触れて不穏な雰囲気になったとしても、日常的な世話をそれなりに積み重ねていくことで、子どものこころに「問題がある自分であっても捨てられない」「親は良いも悪いも含めて、自分を見てくれている」という思いが少しずつ積み重なり、染み込んでいくのです。

「向き合う体験」が不足しつつある現代

 このように「問題と向き合う体験」と「支えられる体験」の両方が積み重なっていくことで、ようやく「問題のある自分でも大丈夫」という実感が得られ、それを支えに子どもはようやく自分の「問題」を受け容れていくことが可能になるのです。子ども単独だと問題と向き合う「こころの衝撃」に耐えられないけど、親に支えられながらであれば、二人三脚で問題と向き合いつつ受け容れていくことができるというわけです。

「そんな七面倒くさいことしなくても、勝手に子どもは成長するよ」と思っている人もいるかもしれません。それは半分正しくて、半分間違っています。

 確かに昔はここまで親が「問題と向き合う体験」に付き合う必要はありませんでした。親が言わなくても、悪いことをすれば祖父母が叱ってくれたり、近所のおじさん(ドラえもんに登場するカミナリさんみたいな人)が銭湯で「こら、水を出しっぱなしにしない!」と注意をしてくれたり、学校では子どもの誤魔化しや狡さを見逃さない先生がいました。

 つまり、「問題と向き合う」という行為を、地域社会が担ってくれており、親は傷ついた子どもを「それは大変だったね」「そりゃ仕方ないけど、嫌な気持ちになったね」などと支えることが大切だったのです。親と地域社会が協働して、子どもが「問題と向き合う体験」と「支えられる体験」の両立ができていたということですね。

 ですが、時代は変わりました。核家族化が進んで子どもの周りにいる身近な大人は減り、相対的に子どもに「耳が痛いこと」を言う人はいなくなりました。また、学校を含めた地域社会が子どもの「現実」を指摘したり、注意したり、諭したり、叱ったりしてくれることは格段に減りました。下手に子どもの「現実」に関わろうものなら、それこそクレームという形で反発を受けることもたびたびです。子どもの不快に過敏な時代になったということでしょうね。

親だからこそ「問題と向き合う」姿勢を

 こうした「時代の変化」の影響もあってか、子どもが「問題と向き合い、関わりの中で支えられる」という体験を得にくくなっています。そうなると「自分にとって都合の悪い現実を受け容れられない」という状態像が生じやすくなりますし、それを端緒として学校での不適応を訴える子どもが見られるようになったのも、当然と言えば当然なのかもしれません。

 ただ、いくら時代の変化を嘆いたとて、現状が変わるわけではありません。

 子どもを育てる大人は、ちゃんとこうした時代の変化も踏まえて、子どもとの接し方に工夫を加えていくことが大切です。要するに、学校を含めた地域社会がやりにくくなった「問題と向き合う」という関わりを、これまで以上に意識して行っていかねばならないですし、併せて「子どもを支える」ということにも力を注がねばなりません(現実に向き合わせるには、より強い支えが必要だから)。

 思いつくことをすべて挙げるわけにはいきませんが、以下では、現代の子育てで大切になりそうなポイントを挙げていきましょう。

イヤイヤ期をどう捉え、関わっていくか

 まず大切なのが「イヤイヤ期」における子どもとの関わり方です。

 生まれてからしばらくは、子どもは主に親に「環境を変えてもらう」のが自然ですが、1歳を過ぎたあたりから、自分から環境に働きかけることができるまで身体能力が向上します。自ら外界にアプローチをかけていくわけですが、当然、それまでのように都合よく環境は変わってくれません。また、2歳頃になってくると、精神的には「自分の思いと親の思いは違う」ということを意識し始めて自己主張が強くなってきます。言語能力が向上することもあり、自分の思いを積極的に表現し始めるようになります。

 こうした身体と精神の発達が合わさることで、自分の思い通りにならない環境に対して「イヤ!」と主張するようになってくるわけです。これが、専門的な言い方をすれば「一次反抗期」であり、一般的には「イヤイヤ期」と呼ばれる時期になります。

 この「イヤイヤ期」の関わり方で大切なのは、意外に思われる人もいるかもしれませんが、ちゃんと「子どもにイヤイヤ言わせること」になります。

 もちろん、やってあげられることはそれなりにやれば良いのですが、子どもがどんなに「イヤ」と言おうが、やらせてあげられないことはやらせられないし、買ってあげられないものは買ってあげられないのが現実です。そして、子どもはこの現実に触れ、当然「イヤイヤ」となりますが、それを親が「はいはい、よしよし」「仕方ないじゃないのー」などと困りながらも受けとめていくことで、親子の関係性を通して「イヤイヤ」を納めていくことを学ぶのです。こうした学びの積み重ねによって、子どもは「思い通りにならない欲求不満」を納める術を学び、より社会的な場での適応を高めていく力になるのです。他者との共存が前提となる「社会」では、思い通りにならないのが普通ですから、この経験は非常に大切なものと言えます。

親にこそ「慣れ」が必要

 読んでいてお分かりになると思いますが、こうした「イヤイヤ−関係性で納める」という構図は、前述した「問題と向き合う−支えられる」という関わりと相似形を成しています。「イヤイヤ」も「問題」も子どもにとって変えようがない「現実」であり、いずれも「現実に向き合ったときの苦しさを、関係性で支えてもらう」という形になっているのです。

 ここで一つ覚えておいてほしいのは、こうした「現実を伝え、その苦しさを支える」という関わりには「慣れが大切」ということです。

 個人差による得意不得意は多少あるにしても、親自身が「慣れる」「経験を積み続ける」ことが重要なんです。「イヤイヤ期」から、子どもの成長に合わせて幾度となく「現実を伝え、その苦しさを支える」という関わりが親子間で展開されます。そのたびに子どもがきちんと現実を見られるようサポートし、ときには押し返し、同時に粘り強く支えていく。こうした関わりの「練習」を「イヤイヤ期」から始めていき、親が親として成長していく機会と捉えておくと良いのです。

 なお、本稿の事例については、(1)本人および親から掲載許可が取れており、本質を失わないことに留意しつつ、個人情報が特定されないように改変を加えたもの、(2)いくつかの類似した事例を組み合わせたものであり、厳密にはフィクションになりますが、実際の事例と遜色のないものになっています。

【「スマホ育児」の意外な悪影響とは “思い通りにならない”経験をしない子どもが直面する厳しすぎる現実】へつづく

藪下 遊(やぶした・ゆう)
1982年生まれ。仁愛大学大学院人間学研究科修了。東亜大学大学院総合学術研究科中退。博士(臨床心理学)。仁愛大学人間学部助手、東亜大学大学院人間学研究科准教授等を経て、現在は福井県スクールカウンセラーおよび石川県スクールカウンセラー、各市でのいじめ第三者委員会等を務める。「『叱らない』が子どもを苦しめる」(筑摩書房、高坂康雅氏と共著)を上梓。

デイリー新潮編集部