前編【3歳で父と死に別れ、母は「妻子持ち」と駆け落ち…頑張れば報われると思うしかない家庭環境で育った、43歳男性の価値観が崩壊した瞬間とは】からのつづき

「がんばれば報われる」と信じて生きてきた浅田俊太郎さん(43歳・仮名=以下同)が頑張るのをやめたのは、新卒で入った有名企業を心身の不調で退職し、東京の実家を出て地方で再就職を果たした時だった。3歳の時に父を喪い、母は妻子持ちの男性と駆け落ち。後に戻って来たものの、悲観した母と祖母はそれぞれ自殺未遂を図った。再出発先で「一生、淡々と働いていよう」と決めた俊太郎さんは、28歳で同僚の奈緒さんと結婚。祖母と母も亡くなり、新しい人生を歩き始めたものの、子宝にはなかなか恵まれなかった。

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 32歳。結婚して4年経っても子どもができない。人生に絶望しているのか前向きだったのか、当時の俊太郎さんの心持ちは、当の本人もはっきりとは覚えていないという。だが子どもはほしかった。それが自分を安定させる存在だと信じていたのかもしれない。

「そんなときに東京へ出張して、たまたま仕事関係のパーティに出席したんです。そこで出会ったのが伶花でした」

 彼は実家をそのままにしていたので、それまでもときどき都内に出てきては家を整理したりメンテナンスをしたりしていた。なぜか実家を処分する気にはなれなかった。

「パーティ会場で、目の前にいた女性がつまずいてシャンパンをかけられてしまったんです。ごめんなさいと言った彼女の目を見た瞬間、恋に落ちました。僕を求めている目だと思った。僕が彼女に惹かれたというのが正確でしょうけど、あのときはこの人は僕を求めているとはっきり感じたんですよね」

ありえない行動に出た俊太郎さん

 彼女は彼を廊下に連れ出し、会場係におしぼりを持ってこさせた。会場係が拭こうとするのをさえぎって自ら彼の服を拭いてくれた。

「こんなきれいな人にそんなことをさせてはいけないと、僕のほうが非常に焦りまして。彼女がひざまずこうとしたので、やめてくださいと立たせたところでまた目が合った。何を思ったのか、僕はそのまま彼女にキスしてしまったんです」

 廊下にはたまたま誰もいなかった。だが、人がいたとしてもキスしてしまったかもしれないと彼は恥ずかしそうに言った。そして不思議なことに、彼女はそのキスを黙って受けたのだ。はっと気づいて彼が体を離し、「申し訳ありません」と頭を下げると、彼女はふふっと笑った。

「大胆な人ねと彼女は言ったけど、楽しそうに笑っていた。『出ませんか?』と言ったら、『いいわよ』と。それでふたりで会場を出て、近くのホテルのバーへ行きました。何を話したらいいかわからなかったけど、なぜか話が途切れなかった。彼女はカクテルを飲みながら、子どもの頃の夢を話してくれました。さっきまで知らない人だったのに、今はまるで僕の恋人のように存在している。こんなことがあっていいのだろうかと思いながら、その時間に酔いました」

彼女が打った一芝居

 彼女がふっと腕時計を見た。帰らなければいけないのだろうか。もう一度、会場に戻らなくてはいけないのと彼女は言った。じゃあ、僕もと彼もつぶやく。

「会場に戻ってびっくりしましたよ。彼女はそのパーティの主催社社長の妻だったんです。最後に紹介されていたので、僕はひっくり返りそうになりました。すごい年の差だし、あんないかにもモラハラしそうな男の妻だったなんて……。彼女、社長と腕を組むようにして退場したんです。思わず後を追おうと思っちゃいました。そうしたら彼女、僕に気づいて目で近寄るように合図をしたんです。近づいたら彼女がさりげなく自分の携帯を僕に渡しました」

 まるで映画である。その後、彼女の携帯に連絡があった。

「彼女からでした。携帯をなくしたから戻らなくちゃと騒いでいる声が聞こえた。彼女が一芝居打ったんです。おそらく夫の声で、『そんなものは誰かに行かせればいいだろ』『いやよ、誰にも携帯の中身を見られたくないもの』というやりとりが聞こえた。その後、小声で『さっきのホテルのバーにもう一回行ってて』と聞こえて電話が切れました」

 あわてて先ほどのホテルのバーに駆けつけると、彼女はすでに来て、のんびりカクテルを飲んでいる。彼を見るとにっこり笑った。

「まさかあなたが、あの社長の奥様だなんてと言うと、『伶花って呼んで』と彼女はわざとなのか、はすっぱな言い方をする。年の差はいくつなのかとか、結婚して何年たつのかとか、いろいろ聞きたかったけど、何を言っても陳腐だなと思って黙っていたんです。すると彼女が『黙っていてくれてありがと』って。そして自ら、『あの人の後妻に入って5年よ。私は20歳で親戚に売られたの』とまた衝撃的なことを言ったんです」

 伶花さんは男女の双子だったのだが、両親はふたりが生まれてすぐ離婚した。母は病気がちだったため、男の子を手元に残し、伶花さんを広く客商売をしている親戚に預けた。高校を卒業すると、その親戚のつてで高級クラブに勤め始めた。そして客としてきていた男性に見初められ、親戚からは「結婚したほうがいいよ。そうすればおかあさんも弟さんもめんどうみてもらえるよ」と言われたそうだ。母は長年患っていたし、弟はその年、大学に入ったばかり。社長から直接、プロポーズされた伶花さんは母と弟のためのマンションをねだった。社長はマンションだけでなく、ふたりの生活を一生めんどうみると約束してくれた。

「悪い人じゃないの。私にも贅沢させてくれる。だけど結局、私は金で買われた女なんだなと思うの、と伶花さんはさらりと言うんです。手入れの行き届いた髪や肌は艶めいて美しかったけど、瞳の奥には悲しみを湛えている。そんな感じでした」

ふたりで逃げて、どこかでひっそりと暮らそう

 もう一度、ゆっくりあなたに会いたい。伶花さんはそう言い、ふたりは連絡先を交換した。俊太郎さんは翌日、朝から仕事をして出張の目的を果たし、午後から伶花さんとともに過ごした。

「彼女はホテルの部屋を指定してきました。夫はここを知らないから大丈夫。ひとりで過ごしたいときにときどき使うのと。部屋で会って話しているうちに妙な雰囲気になってしまって……。彼女、あまりに乱れるのでビビりましたよ。『僕は恋愛経験があまりないから、下手でごめん』と思わず謝ったら、『あなたはそういう人なのよね』と抱きしめられました。彼女、結婚してから一度も夫とセックスをしていないそうです。『あの人、できないの』と彼女は言ってましたね。かえってそれでよかったんだけど、とも」

 一生、私はかごの鳥なのよと彼女は古風な言い回しをした。暇だから英語の家庭教師に来てもらっていたらおもしろくなって勉強、英語はかなりしゃべれるようになったとか、これからスペイン語を習いたいとか、日々の生活も話してくれた。

「いっそ、今の生活を捨てて、僕と一緒にどこかへ行かないかと誘ってみました。自分だって結婚しているくせにと彼女は耳を貸してくれなかった。うちは子どもがいないし共働きだし、離婚はむずかしくない。そう言ったけど、彼女にそんな勇気は出るはずがない。おかあさんと弟が人質にとられているようなものですしね」

 ところが彼女は「それもいいかも」と言いだした。ふたりで逃げて、どこかでひっそりと暮らそうと言いながらも、「それはあなたから美を奪うことになるのかもしれない」と彼はつぶやいた。すると伶花さんは「いいの。違う人生を送りたい」と激しくむしゃぶりついてきた。

 自宅のある地域に戻る列車の中で、彼は彼女との急接近を「運命」だと受け取った。人生を変えるなら今しかないのかもしれない。妻に離婚を切り出してみよう。

「会社に顔を出してから自宅に戻ると、奈緒が僕の好物をテーブルに並べていました。胸が痛んで、言いそびれていると、『ねえ、報告があるの』と妻がニコニコしている。どうしたのと聞くと、『とうとうできたのよ、あなたと私の子』って。皮肉な話ですよね」

 うれしくないのと言われて、慌ててびっくりしすぎて声が出なかったと答えた。新たな人生の火が吹き消されたような気がした。

「伶花にはすべて正直に話しました。ただ、僕は子どもを捨ててもかまわないとも言った。伶花はさすがにそんなことはさせられない、だけどあなたとは別れたくないと。僕も同じ気持ちでした」

10年に及ぶ密会

 そこから10年近くに及ぶふたりの密会が始まった。それぞれの配偶者に知られないよう、伶花さんの場合は仕事先にも顔が知られているため、より慎重にならざるを得ない。

 生まれた息子も、この春、小学校4年生になった。息子はかわいいが、「この子も結局、苦労するんだろう」と思うと不憫になると彼は言う。

「伶花と会うのはもっぱら東京でした。運良く、僕は出張が増えたし、休みをとって東京へ行くこともありました。会えるのはせいぜい月に1回か2回。それでもそのときだけはふたりとも何もかも忘れてお互いを求めあった。いつかふたりでどこかでひっそり暮らす夢も持ち続けた」

 昨年秋のことだ。ふたりは俊太郎さんの実家にいた。古い家だが、伶花さんはその家を気に入り、ふたりで少しずつ直してときどきそこで過ごしていたのだ。その日も、まるで夫婦のようにふたりはのんびりしていた。

「そこに彼女の夫の部下が踏み込んできたんです。どうやら妻に不信感を抱いた夫が浮気調査を依頼したみたいです。いつかこんな日が来ると思ったわと、伶花は『ごめんね。じゃあね』と手をひらひらさせて……。去り際に『あなたには迷惑がかからないようにする。約束するから安心して』とささやきました。夫のなだめ方を知っているんでしょう」

会えると信じています

 俊太郎さんはふぬけになった。伶花さんの夫は俊太郎さんを訴えたりはしなかったが、なんと奈緒さんに連絡して事の次第をぶちまけたようだ。もちろん、当人が出てきたわけではなく、俊太郎さんと奈緒さんが働く職場に郵便が届いたのだ。たくさんの写真なども同封されていた。

「どういうことと奈緒に言われて、言い訳はしないと答えました。奈緒は『職場にバラしてあなたを退職に追い込みたいのが本音だけど、そうなると養育費ももらえないもんね。異動届を出してよ、どこか遠くに』と言いました。ところがうちの会社、それほど遠いところに支社や営業所がないんですよ。それで僕は東京に異動を希望し、上司にこっそり本当のことを話して異動させてもらいました」

 今は実家にひとりで住んでいる。仕事内容ががらりと変わったこともあって、打ち込めない日々だという。今の上司には、「なんで君が東京に来たのかわからない」と言われる始末。

妻が怒っているのはわかっている。だから当然、離婚するのだと思っていたが、妻は離婚はしないと言い張っている。俊太郎さんは、自分の給与の半分を妻の口座に毎月振り込む。

「伶花とはあれきりです。仕事の関係者で社長夫妻のことを知っている人に、それとなく聞いてみたけど『あそこは相変わらず、社長が若い奥さんにぞっこんだから』と言っていました。表向き、変化はないみたいです。会えないのはつらいけど、僕にとって伶花は永遠の女神なんです。きっといつかまた会えると信じています。だから今、絶望はしていない。伶花も僕に会えると信じて日々を生きているはずですから」

 最後の部分は妄想かとも感じられるが、もしかしたら本当にそうかもしれないとも思わされる。男と女、目には見えない何かでつながっているかもしれないのだから。

「妻に、悪いと思ってないでしょうと怒られたんですよ。悪いと思っていたら、最初からそんな関係にはならない。僕は伶花とのどうにもならない運命を感じてしまっただけなんです。まあ、妻にはそうは言えなかったけど……」

 好きとか恋しているとか、そういうこととは次元が違うと彼は言った。友人には、オレの人生終わったと冗談めかして言っているが、実際にはそうは思っていないのだという。「これは運命、僕と伶花は離ればなれになってもまた会う運命」と彼はつぶやき、「もちろん、信じなくていいですよ。不倫した男の戯れ言です」と真顔になった。

前編【3歳で父と死に別れ、母は「妻子持ち」と駆け落ち…頑張れば報われると思うしかない家庭環境で育った、43歳男性の価値観が崩壊した瞬間とは】からのつづき

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部