エースになったこともなければ、おそらくスカウトの目に留まったこともない。それでも「自分はプロ野球選手になるんだ」と公言し、その願いを見事に叶えた三ツ間卓也さん(31)は今、横浜市でイチゴ農家として活躍しています。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の今に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第8回は中日ドラゴンズで投手として活躍した三ツ間さんのアマチュア時代から振り返ります。(前後編の前編)

「一度もエースになったことがない男」がプロ入りするまで

 まったくの未経験者ながら農業の世界に飛び込んだ。農業アカデミーに通って一から生育法を学び、人脈を作り、資金調達をして土地を探し、ついに農園をオープンした。彼が第二の人生で選んだのはイチゴだった。

 中日ドラゴンズに在籍し、77試合に登板して4勝3敗15ホールド。これが、育成枠からはい上がり、6年間の現役生活を駆け抜けた三ツ間卓也の全成績だ。プロ野球選手からイチゴ農家への意外な転身。そこには、どんな思いがあったのか? 彼はどんな思いでイチゴと向き合っているのか? まずは「一度も、エースと呼ばれたことがなかった」と語るアマチュア野球時代から振り返ってもらった。

「ずっとプロ野球選手志望でした。高千穂大学時代も“オレはプロ野球選手になるんだ”と公言していたけど、スカウトの目に留まることはなかったです。僕の所属していた東京新大学野球リーグには、ドラフトの目玉である田中正義(現・北海道日本ハムファイターズ)が在籍していてスカウトの人もたくさん来ていたのに、僕には(球団がドラフト指名の可能性がある選手に送る)調査書が1通も届かなかった。この時点ですでに、“何かを変えなければダメなんだ”とわかっていました」

 高崎健康福祉大学高崎高校時代には控え投手だった。大学時代も伸び悩んでいた。「プロは諦めよう」と決意し、いったんは大手不動産会社への就職を決めた。しかし、夢を諦めることができずに就職はやめ、将来のNPB入りを視野に入れ、ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)のトライアウトを受験することを決めた。

「このとき、新たに発足した武蔵ヒートベアーズのGMの推薦もあって、独立リーグでプレーすることになりました。せっかくチャンスをいただいたのだから、“死に物狂いで1年間は頑張ろう”と決めました。1年でNPB入りが出来なければ野球も辞める。ダラダラ長引かせるのがいちばんよくない。期間を設定して本気で取り組まないとダメだと考えました」

 何か新しいことを始めるときには期間を決めた上で、退路を断って、死に物狂いで取り組むこと――。このポリシーが、後の農業転身にも活かされることになるのだが、それは後編で詳述したい。ヒートベアーズ時代、三ツ間は自分を変えるきっかけとなる出会いに恵まれる。投手コーチであり、現役時代には千葉ロッテマリーンズなどで活躍した小林宏之である。何事も戦略的に考える三ツ間と、プロでの実績と経験を持つ小林との出会いにより、その才能は大きく開花する。

「大学時代に誰からも注目されなかったということは、そのままではダメだということ。フルモデルチェンジをする必要があると考えて、《オーバースローの先発》を目指すのではなく、《サイドスローの中継ぎ》を目指すことにしました。サイドから150キロのストレートを投げる中継ぎ投手なら、プロでの需要もあると考えたからです」

「お前が路頭に迷うのか、相手が路頭に迷うのか?」

 その戦略はズバリとハマった。プロで中継ぎ経験を持つ小林の指導と、自ら積極的に取り組んだ肉体改造の成果もあって、球速はグングンアップし、常時150キロを計測するようになった。少しずつプロのスカウトの視線も集めるようになっていく。こうして、2015年のNPB育成ドラフト会議で、三ツ間は中日ドラゴンズから育成3巡目指名を受けた。

「ようやく育成枠での入団が決まりました。でも、僕の目標はあくまでも一軍で活躍すること。ここでもタイムリミットを設けて、“1年で支配下選手になれなければ野球は辞めよう”と決意して臨むことにしました」

 前年は「1年でプロに行けなければ野球は辞める」と決意して背水の陣で臨んだ。そしてこの年もまた「1年で支配下登録されなければ野球は諦める」と覚悟を決めてドラゴンズのファームで研鑽を積んだ。

「期間を決めずにダラダラと続けてしまうことがいちばんよくないこと。そのためにはきちんと期間を設定する。その考えは当時も、今もまったく変わっていません」

 ファームでは徹底的に「右打者のインコースを突くこと」に取り組んだ。当初はなかなか攻め切れなかった。しかし、当時の高山郁夫ピッチングコーチのひと言で目が覚めた。高山は、今季からドジャース入りした山本由伸の恩師として知られる名伯楽だ。

「自分ではしっかりインコースを攻めているつもりなのに、高山さんからは“まだダメだ”と言われ続けました。そんなある日、高山さんから“インコースを攻めることは、一歩間違えると死球となり場合によっては、相手に選手生命にかかわるけがを負わせてしまう。でもお前が路頭に迷うのか、相手が路頭に迷うのか、どっちがいいんだよ?”と言われました。この言葉は今でもハッキリと覚えています。そこから気持ちが切り替わって、ボールも変わった気がします」

 プロ1年目の2016年、三ツ間はファームで35試合に登板し、この年のオフに支配下登録を勝ち取った。右バッターへのワンポイントもいける、ロングリリーフもいけるという万能さが重宝されたのだ。背番号「206」から「43」へ。有言実行で、わずか1年で支配下登録を自らの力で勝ち取ったのである。

前代未聞の「代打・三ツ間」騒動を振り返る

 支配下1年目の2017年には35試合に登板した。森繁和監督もまた、使い勝手のいい三ツ間の技術と度胸を買っていた。早くも4月12日には救援登板で2回を無失点に切り抜け、味方が逆転したことでプロ初勝利も挙げた。順風満帆なスタートを切った。

「……いや、決して順風満帆ではないですね。開幕当初はファームでやっていたことが通用したんだけど、すぐに研究されて右バッターのインコースを見逃されるようになって、そこから手詰まりになることが多くなりました。するとカウント負けして、ボール先行になって、勝負にいった甘いボールを打たれてしまう。なかなか厳しかったです」

 打開策を見出せないまま、翌18年はわずか4試合の登板に終わった。決して、コンディションが悪かったわけではない。本人によれば「理想と現実の差を感じて焦ってしまった」からだった。それでも、三ツ間は復活する。

「19年には左バッターのインコース対策としてカットボールを投げるようになり、これがうまくハマってくれました。その結果、与田剛監督に認められて一軍で投げる機会が増えました。右バッターにはシュート、左バッターにはカット。僕の場合はバッターのインコースをいかに攻め切れるかが生命線でしたから」

 しかし、その後は故障に見舞われ続けた。20年には4試合、21年には5試合の登板に終わる。この間、投手としての出番は少なかったが、20年には「打者」として注目を浴びたこともある。ファンの中では「代打・三ツ間」として話題となった一件だ。7月7日の東京ヤクルトスワローズ戦で延長戦に突入し、控え野手を使い果たしていたドラゴンズベンチは投手・岡田俊哉の代打として三ツ間を起用したのだ。

「あのとき、ベンチには3人の投手が残っていたんですけど、僕がちょっとバッティングがいいということで選ばれました。相手投手はスワローズの石山(泰稚)さん。長年、抑えを任されてきた投手の生きたボールを見られるわけだから、“最高じゃん”って思ったし、“絶対に打ってやろう”と思ったけど、顔の前で振ったつもりが、ボールはすでに顔の後ろにあったし、ワンバウンドかと思ったら、そこからグーッと伸びてストライクになったし、まったく当たる気がしませんでした(笑)」

 独立リーグから育成枠でプロ入りし、支配下登録を勝ち取って一軍で77試合に登板した。しかし、無情にも21年オフに戦力外通告を受けた。自分では「まだまだ投げられる」と思っていた。だから、迷わずトライアウト受験を決めたものの、どこからも誘いはなかった。

「トライアウト後、韓国や台湾球界、日本の独立リーグからお誘いはあったんですけど、自分としては“NPBにこだわる”と決めていました。NPBから誘いがない以上、野球は終わりです。キッパリと次の道に進むことを決めました」

 潔くユニフォームを脱いだ三ツ間が第二の人生に選んだのは、誰もが驚いたイチゴ農家への転身だった。親戚縁者に農業従事者がいるわけでもなく、自身も経験があったわけでもない。全くの素人がいきなりイチゴ農家を目指すことを決めたのだ。そこには一体、どんな理由があったのか。                   

(文中敬称略・後編【コロナ禍がきっかけで、神奈川県で300坪のイチゴ農園を開業、シンガポール・ドバイへ輸出する計画も…元中日投手(31)が明かす第二の人生】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部