前編【元中日の強打者からアントニオ猪木に渡され、北朝鮮へ…「力道山のゴルフクラブ」秘話】からのつづき

 日本プロレス界の父・力道山と幼少時から絆を築いた元中日ドラゴンズの森徹。森の母が力道山の死化粧を施すなど、家族同然の間柄だった。形見分けとして「RIKIDOZAN」のネーム入りゴルフクラブセットを受け取った森だったが、約30年後にアントニオ猪木からその所在について連絡を受ける。猪木はなぜ、残っていた6本のゴルフクラブとともに北朝鮮へ渡ったのか。師匠・力道山に抱いた愛憎や北朝鮮訪問時の思い出などを、猪木本人が赤裸々に明かす。

(前後編記事の前編・「新潮45」2011年10月号掲載「現代史発掘 北朝鮮に渡った力道山のゴルフクラブ」をもとに再構成しました。文中の役職・肩書き、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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力道山とアントニオ猪木

 新橋のオフィスビル。約束の時間に訪れると、向こうに大きな背中が見えた。青いシャツに赤いマフラー。柔和な笑顔で迎えてくれる。渡された名刺には、アントニオ猪木とある。イノキ・ゲノム・フェデレーション株式会社、代表取締役会長。

 力道山のことは、対外的には「師匠」、仲間内では「オヤジ」と呼んでいた。

「ずっとオヤジは、長崎出身の在日の人かと思っていた。北朝鮮出身なんて知らなかった。そういうことには無頓着だったから」

 きっかけは90年代はじめに掲載された、ある新聞記事。

 力道山の娘が今も北朝鮮に生きていると言う内容だった。引き込まれるようにその記事を読んだ。それから資料を集め出し、自分が知らなかった力道山の物語を遡る。付き人時代の記憶を辿ると、思い当たる節がいくつもあった。

力道山の抱えていた苦悩が今ならわかる

 たとえば1961年頃、新潟に興行に行ったとき、力道山がふといなくなった日がある。資料によれば、そのとき“帰国船”の中で、北朝鮮から来訪した兄と娘に会っていたのだ。

「正直なところ、亡くなって30年がたち、力道山のことはもう意識の外にあった。師匠は師匠として残ってはいたけれど」と猪木は告白する。

 街頭テレビの中の力道山。戦後の国民的な大ヒーロー。遠い日の物語。それは弟子の猪木にしても同じだった。だが、その新聞記事が、猪木の中の何かを揺り動かした。

 今ならば、力道山の抱えていた苦悩がわかる。ヒーローになった晴れ姿を、故郷の両親や兄弟たちに見せたいが、それも叶わない。あの空手チョップには、出自を隠さねばならない屈辱、帰りたくても帰れない故郷への慟哭の思いが込められていたのだと。

 ブラジルでのプロレス興行で、移民の子だった猪木を日本に連れて帰ったのは力道山だった。猪木にも、国を離れてこそ湧き出てくる、祖国への思いが理解できた。

 今こそ、師匠のために、何か恩返しができるのではないか?

師匠を一生恨まずに済んだ「一瞬の出来事」

 若き日の猪木は、力道山を憎んでいた。理不尽に殴られ続けたからだ。靴のはかせ方が悪いと、靴ベラで顔をはたかれ、中途半端な試合をすると、気絶するほど暴行された。同期でエリート候補だったジャイアント馬場には、一度も手を上げなかった。なぜ俺だけがこんな仕打ちを受けるのか。殺意を感じたこともある。

 だがある一瞬の出来事が、師匠に対する思いを変えたという。

 巡業から戻り、一人合宿所にいたある日、力道山から「上がって来い」と電話があった。上のマンションの部屋に行くと、大相撲の高砂親方(元横綱前田山)がいた。

「駆けつけ三杯のジョニ黒を飲まされ、部屋の隅に立っていたら、高砂親方が『こいつは、力さん、いい顔してるね』とオヤジに言ったんです。そのときのオヤジは満面の笑みで、誇らしそうにうなずいていた。その顔を見たとき、はじめて『ああ、オレは期待されているんだな』とわかった。それまでずっと殴られ、罵倒され続けて、自分がどう思われているのかなんて、知らなかった。その一瞬がなかったら……」

 おそらく、後に北朝鮮へ行くこともなかっただろう、と猪木は言う。

 その日の夜、力道山はニューラテンクォーターで刺された。偶然の出来事とは思えなかった。このとき猪木は20歳、その一瞬があって、師匠を一生恨まずに済んだのだ。

猪木、北朝鮮へ

 1994年9月、猪木は北朝鮮へ行く手はずを整えた。力道山の弟子であり、師匠の恩返しをしたい、という理由で入国申請をすると、意外にすんなり許可が下りた。

 手土産として力道山の遺品を持って行きたいと思ったが、適当なものがなかなか見つからなかった。そんな時、両者と旧知のジャーナリストを通じて、森徹が所有していたケニースミスの存在を知った。身の回りの品々はいくつか見つかったが、名前入りの遺品はそれだけだった。

 猪木はそのアイアンセットを手ずから運んだ。

 平壌では、力道山の娘、金英淑が空港まで出迎えてくれた。

「師匠の面影がありました。やはり似ていましたよ。でも、会話はあまり弾まなかった。私の言葉よりも、遺品を通してお父さんの姿を探っているような感じでね」

 師匠の故郷も訪ねた。

「のんびりした田園地帯というか、家屋が密集していなくて、何家族が集落になって、ポツンポツンとある。生家はきれいに残っていました。若かりし力道山が身を鍛えたという重い石もあった。もう兄弟はみな亡くなっていましたが、親戚だというおばあさんが一人いて、私の手を握って離さないんですよ」

大衆が理解しなければ政治は動かない

 猪木は北朝鮮で、力道山の愛弟子として大歓迎された。そして翌年4月28日と28日、平壌メーデー・スタジアムでブロレス興行、「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催する。モハメド・アリを立会人として呼び、前記の通り2日間で38万人という観客を動員した。スポーツを通じた平和外交。

「政治志向もあった師匠が願っていたのは、きっと国境を自由に行き来できるようになること。その思いを、俺がなんとか実現したいと」

 だがそれ以降、猪木の思いは空転する。

「いま、北朝鮮でも“猪木先生は過去の人だ”と言う人がいる。確かに平和の祭典から十数年がたった。もう議員でもないし、現役のレスラーでもない。でも平壌の町を歩くと、今でもみんな手を振ったり、挨拶をしてくれるんです。俺が言いたいのは、大衆が理解しなければ政治は動かないということ。そのためにはスポーツでも経済でもいい、両国の民間レベルの交流が不可欠なんです。両国の関係は、オヤジの時代から何も変わっていない」

 徒手空拳、議員とレスラーという武器を持たない現在の猪木は、もどかしい思いに駆られている。毎年のように北朝鮮に招待されるものの、具体的な話は何もなく、「子どもの使いじゃないんだから」と苛立ちもする。

 そもそもスポーツによる平和外交など茶番劇だと見なす輩も多い。だが、たとえ蛮勇であろうと、動かないより動いた方がいい。そして今、平壌のホテルに個人事務所を開設する話が進行中ともいう。

「そうなれば……」と猪木は希望を持つ。力道山から引き継いだ“闘魂”、スタジアムに集まった 38万人の熱気は、いまだ彼の体内で燻り続けている。

猪木がゴルフに熱中しなかった理由

 森徹は、力道山の飛距離の凄さを覚えている。ドライバーが当たる と300ヤードは軽く飛んだ。

「でもまあ、オレの方が飛んでいたな。プロのホームランバッターだからさ。飛ばすのが商売だから、負けるわけにはいかない」

 一方、猪木の思い出はほろ苦い。付き人だった彼は、ゴルフは紳士のスポーツだからと言われ、背広を着込んで、力道山の球の行方を追いかけた。

 まだゴルフボールが貴重品だった時代である。ロストボールを探すため、藪の中に分け入り、靴を脱いで田んぼの中で泥だらけになった。見つけないと怒られる。一張羅の背広はボロボロになった。鉛の球のついた練習器具で、意味もなく頭を思い切り殴られ、一週間熱を出して寝込んだこともある。

 だからなのか、猪木はその後、ゴルフをたしなむことはあっても、師匠のようには熱中しなかった。

「RIKIDOZAN」と刻印されたケニースミスのアイアンは、今どこにあるのか? 一説には、生前、力道山が金日成に贈ったという高級自動車が展示されている、妙香山の「国際親善展覧館」にあるという。だが、それを確かめた者は誰もいない。

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部