ポジティブでマイペース、ギスギスしたところがない。明るいオーラで周囲をやる気にさせていく(撮影/篠塚ようこ)

 建築家、永山祐子。東京・新宿に立つ「東急歌舞伎町タワー」が昨年、話題となった。永山祐子は今、大阪・関西万博のパビリオンも手がける。素材やデザインにこだわると、予算がかかる。そこを「こうすればできる」と粘り強く交渉していき、理想に近づける。出産をしたことで、仕事の仕方も変わった。心強い味方を得て、どうしたら建築が人と場所を幸せにできるかを追求する。

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 海風が四方から吹き付ける人工島は、「寒い」を超えて「痛い」ほどの冷気だった。クレーンが林立する広大な現場では、大型の作業車がひっきりなしに行き交い、車輪から巻き起こる砂埃(すなぼこり)が容赦なく頬を打つ。そんなハードボイルドな景色の中で、建築家の永山祐子(ながやまゆうこ・48)が、建設途上の建物のディテールを一つひとつ、関係者とともに丹念に確認している。

 永山は2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)で、「パナソニックパビリオン『ノモの国』」と「ウーマンズパビリオンin collaboration with Cartier」2館のファサード(正面部)デザインを手がけている。ノモの国では、8の字に曲げた金属フレームにオーガンディの布を張ったモチーフを連続させ、そこに風の揺らぎを誘導することで、軽やかさ、自由さを表現する。

 ウーマンズパビリオンでは、日本の伝統である麻の葉文様を鋼材で組み立て、それを壁や天井に作り上げていく。ここで使う鋼材は、21年のドバイ国際博覧会日本館のファサードで使用したもののリユースで、SDGs時代ならではのインパクトも同時に発信する。

 文章にすると簡単に終わってしまうが、華やかで軽快なデザインの裏には、綿密な構造計算とともに、人の心を動かす「美」へのあくなき探求、すなわち建築家にとってのレゾンデートル(存在意義)が横たわっている。

 昨年に建築界の話題をさらった東京・新宿の「東急歌舞伎町タワー」の外装デザインも、永山の強い思いの賜物(たまもの)だ。噴水から噴き上がる水しぶきが天を衝(つ)くような超高層ビルは、その斬新、繊細な意匠で、日本一雑多であやしい町、歌舞伎町のイメージを塗り替えるランドマークとなった。

「JINS PARK 前橋」は2層の吹き抜けに配した大階段が特徴。手がけた仕事は機会がある度に立ち寄って、様子を確認している(撮影/篠塚ようこ)

「素材と表現には、いつもこだわっています。最近は人件費、資材の高騰もあり、なかなか当初の計算通りには行かないのですが、そこを乗り越えてイメージした形に近づいていく過程が、楽しくてやめられないですね」(永山)

■バッシングは仕方がない 建築は建ててこその世界

 日本は世界に冠たる建築家の輩出国である。戦後の丹下健三から始まり、磯崎新、黒川紀章、安藤忠雄、隈研吾、妹島和世……と、時代を象徴するスターが次々と生まれてきた。永山はその後続世代で、藤本壮介、中村拓志らとともに前線に連なる一人だ。

 だが建築家を取り巻く状況は、昔と今ではまったく変わってきている。永山がかかわる大阪・関西万博は費用の膨張に批判が続出。東急歌舞伎町タワーは、永山がまったく関与していない「ジェンダーレストイレ」が炎上を呼び込んだ。そうでなくとも、超高層プロジェクトは、投資リターンを最大化する事業スキームが最重要で、建築が持つ創造性はその下位に押し込められがちだ。キャンセル・カルチャー、リスクヘッジの世の中にあって、建築家はもはやスターではなく、世間から放たれる矢をかわすスケープゴートとして扱われかねない。

 しかし、その現実を背負いながら、永山に悲壮感はまったくない。

「いろいろな意見があるのは当たり前で、バッシングが起こるのも、ある意味仕方ない。でも、建築は建ててこその世界。誰かがやらねばならないのだったら、私がその役を引き受けて行動する。その姿を次の世代に見てもらいたいのです」

 と、直球の言葉を返してくる。

 永山が率いる「有限会社 永山祐子建築設計」は現在、所員16人。超高層ビルから眼鏡、小箱のような手の上に乗るプロダクトまで、中身もオフィス、商業、美術館、住宅など、多様なプロジェクトを手がけている。男性優位、筋力優位のこの世界にあって、会社は永山も含めて女性が7人。本人を筆頭に子育て中のメンバーも多く、事務所の雰囲気はさらっとなごやか、昭和時代の大家族のような趣がある。

事務所での打ち合わせ。決断は素早い(撮影/篠塚ようこ)

 所員の一人、小森陽子(38)が語る。

「ものすごく集中力のある、頼もしい指揮官です。でも出張に行った時は、ミカンを箱で買ってきたりして、お母さんみたいなところもあります」

 永山自身、東京・杉並で両親、祖母、弟妹と、同じ敷地に叔母夫妻が暮らす大家族の長女として育った。父は生物物理の研究者、母は元・化学技官というアカデミックな家庭で、子どものころは漠然と生物の世界に進むことを思い描いていた。

 それが建築という「大きな」ものに振れたのは、高校3年の時。通学時のバス停で友人から「建築家を目指す」と聞いた瞬間に、「私もこれだ!」と直感が天から降りてきた。小さな時から物語を想像することが好きで、部屋の片隅にマットレスで作った「ハウス」にこもる時間が至福。理系の教科も得意で、数学が表す数のロマンにも惹(ひ)かれる。早世した父方の祖父は、モダニズムの泰斗(たいと)、谷口吉郎門下で建築家を志していた。自分の中にあるさまざまな要素が一つにハマった時だった。

 建築コースがあった昭和女子大学生活科学部に進学し、卒業後はアトリエ派の青木淳建築計画事務所での修業を選んだ。青木の事務所ではメンバーが4年で独立することが不文律で、永山もそのルール通り26歳で独立。青木から振られた東京・北青山の大型美容室の内装が初仕事となる。

「今から思えば20代で独立なんて無謀でしたが、その時は何も知らないから逆にできちゃったんだと思います。あ、仕事が来た!ということで一所懸命に応えたら、次も来た! その次も来た! と、今もその延長でやっている感じで」

 語り口は明るく軽快だが、その言葉の後には「すべての仕事に100%以上の力で応える」という、永山の姿勢が続く。

 100%以上を表す一例が04年に手がけた「LOUIS VUITTON大丸京都店」のファサードである。この時は京都の中心、四条通りに面した店舗の前面に、液晶ディスプレーに使われる偏光板を使って、シックな黒い縦格子を出現させた。本物の格子ではなく、角度によってガラスに映し出されるバーチャルな格子模様は、エッジを効かせながら、ハイブランドの店舗と古都の街並みをつなぐ仕掛けだった。

大阪・関西万博の現場を確認したこの日は、次に博多に移動だった(撮影/篠塚ようこ)

■建築界で異端の素材 実験を重ね問題をクリア

 永山と組んだファサードエンジニアの小野田一之(現・三和ファサード・ラボ社長)は、このアイデアを最初に聞いた時、それまでにない衝撃を受けたと言う。

「永山さんが自分で作った模型を持ってきたんです。それを見て、あっと驚きましたね。ツルッとした偏光板の奥をのぞくと、そこにないはずのものが立体的に見える。光学の世界で偏光板は普通の素材ですが、建築で使うなんて聞いたことがなかった。名だたる建築家でも、そうそう出てこないアイデアです」

 偏光板は電子顕微鏡の専門家でもあった父との会話の中で知り、自分の中にストックしていた独自のものだった。異端の素材ゆえ、建設会社が最初に行った耐久性能試験ではあえなく却下。しかし、納得できなかった永山は諦めず、試験場の片隅を借り、ひと月をかけて実験をやり直した。

「最初の試験は紫外線や熱などの条件が非現実的で厳し過ぎたのです。私は現実的な条件を設定し直して、データとともに問題点がクリアできることを証明しました。フランスのクライアントを説得することも大事で、英語が得意でなかったけれど、必死で伝えました。なぜなら、自分が手がける証しとして、この素材だけは絶対に譲れないと決めていましたから」

 この作品で才能ひしめく建築界の一角に喰(く)い込んだ永山は、アパレル店舗、個人住宅、カフェ「カヤバ珈琲(コーヒー)」(東京・谷中)や老舗旅館「木屋旅館」(愛媛県)のリニューアルで手腕を発揮していった。12年にはアーティストの藤元明(48)と結婚。公私ともに順調だった道のりの中で、初めて立ち止まったのは、長男の妊娠中に「豊島横尾館」(香川県)の話が来た時だ。

 瀬戸内海に浮かぶ豊島の古民家を改装して、横尾忠則の美術館をつくるプロジェクトでは、地元の協力を得るためにも、現場通いが必須だった。この件に限らず、建築の仕事は現場なしでは成り立たず、その現場は東京から遠く離れていることが多い。仕事と結婚は両立できるが、出産を控え、さらに子どもを育てながらでは、仕事は完遂できないのではないか。いったんキャリアを中断し、事務所も縮小すべきではないか。そう考えた時に、母から「育児は全面的に協力するから、その話は受けなさい」という強力なプッシュを受けた。

ビンテージマンションの最上階2フロアをみずからリノベートした自宅で、夫の藤元明と小学生の長男、長女と。ガーデンテラスがある家は子どもたちと友達との格好の遊び場。「私は必死の形相でご飯を作っています(笑)」(撮影/篠塚ようこ)

 母の永山幸子(75)は結婚に際して躊躇(ちゅうちょ)なく家庭を選んだ人だったが、「子育てがある場合、女性は男性と同じ時間を仕事に使えない。それは不公平なことだ」と、常々考えていたという。

「家庭と仕事、どちらが大事というのではなく、自分が力を発揮できる場所でがんばればいい。娘がチャンスを与えられ、仕事に打ち込みたいのなら、足りない部分を私が支えよう、と」(幸子)

■メンバーに仕事を任せると 事務所がさらにパワフルに

 折しも美術館で横尾が設定したテーマは、子どもの誕生ともつながる「生と死」。受験生にはおなじみ、参考書の文字を隠す赤いシートをヒントに、真っ赤なガラス壁で向こう側の眺めをモノクロ世界に変異させた美術館は、彼岸此岸(しがん)を行き来する幻想的な空間に仕上がった。この作品で建築界のメジャーな賞であるJIA新人賞を受賞。長男に続き、翌年には長女も誕生して、いよいよ多忙は極まっていく。

 もともと、人にまかせることができない性分で、特に建築については完璧主義。しかし、建築家としての創造、事務所の経営、家庭の運営、子育てと、何重もの役目が重なる中で、従来のやり方は通せない。立て込む仕事を前に「もうダメかも!」と震えながら、その局面をマネジメントの切り替えで乗り越えていった。

 大きな変化は「人にまかすこと」だった。それまで所内全体で関わってきたやり方を変えて、プロジェクトごとに担当を割り振り、その上に永山が立って総合的なディレクションを行う。事務所は机に向かう場ではなく、ディスカッションと意思決定を行う場ととらえる。決断のスピードを速め、判断を過たないように、常に思考を整理しておく。そう決めてメンバーに仕事をまかせると、人は育ち、事務所自体がさらにパワフルな仕事集団になっていくことを実感した。

「3食がお弁当だったりする」というほど移動が多い日常。iPadは欠かせない道具。週に3回、母が自宅に来て家事と子育てをサポートしてくれている(撮影/篠塚ようこ)

 この経験は建築家として次のステージに行く上でも大きな基盤になった。永山は言う。

「建築は大きなお金が動くものですので、表面的な意匠だけではなく、予算、スケジュール、人間関係、時代の文脈とすべてへの目配りが求められます。困難や変更はイヤというほど発生して、その度に心折れる気分になりますが、でも、やるしかない。いかにデザインするかと同時に、いかに実現まで持っていくかが、建築家のスキルだと思っていますので」

(文中敬称略)(文・清野由美)

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