1972年札幌冬季五輪スキー・ジャンプ男子の70メートル級で優勝し、日本人で初めて冬季五輪の金メダリストとなった笠谷幸生さんが23日、虚血性心疾患のため、札幌市の病院で死去した。80歳だった。

 寡黙だった笠谷さんのひと言に救われた選手がいる。1998年の長野五輪のラージヒル(LH)個人で銅メダル、団体で金メダルを獲得した原田雅彦さんだ。

 95年3月、サンダーベイ(カナダ)で行われた世界選手権に原田さんは参加した。93年の同選手権のノーマルヒル(NH)で優勝していたため、そのシーズンは不調だったが、前回大会優勝者枠での出場だった。結果はNHでは2本目に進めず、LHと団体ではメンバーにも入れなかった。その大会ではNHで24歳だった岡部孝信さんが金、斉藤浩哉さんが銀、団体でも日本は銅メダルを獲得していた。

 高校を卒業したばかりの船木和喜さんが台頭したシーズンでもあった。当時26歳。「はっきり言って引退もちらついた」と、原田さんは話していた。大会最後の試合(LH)に出場した日本勢を応援し、宿舎へ戻るバスの後ろに一人で座っていた。その時、声をかけたのが飛型審判員で大会をサポートしていた笠谷さんだった。「日本選手が伸びてきたのは、お前が率先してV字ジャンプを実践してくれたおかげだ」。

 91年夏、板をそろえて飛ぶスタイルからVの字に開く「V字ジャンプ」が登場した。飛距離が伸びるのか? 確信が持てずフォーム変更に踏み切れない選手や、板を開きバランスを崩し、転倒を恐れる選手もいた。そんな中、原田さんは「ダイジョウV」と、叫びながら練習した。そして、V字に開けば飛距離が伸びることを結果を出して証明していた。

 「笠谷さんのあの言葉はうれしかった。なんか、吹っ切れたんだよね。あれで、もう少しやってみようと思った」と長野五輪での栄冠につなげた。

 天国でも、笠谷さんは世界で活躍する日本人ジャンパーの姿を見守ってくれるはずだ。(元スキージャンプ担当・伊藤 和範)