諸国での情報収集と慶喜への警戒

 横浜大火後、サトウは領事館勤務から江戸の公使館勤務に復帰した。1866年7月のパークスの鹿児島訪問には同行しなかったが、同年12月から1867年(慶応3)1月にかけて、サトウは各地の政治情報を収集するため、西国諸藩に派遣された。

 英国艦隊の旗艦プリンセス・ロイヤルに乗船し、1866年12月23日に至り、長崎に初上陸した。そこで宇和島藩士井関盛艮(もりとめ)や肥後藩士から、大名会議の開催、長州藩の処分問題、兵庫開港の諾否などについて情報を入手した。

 1867年1月、軍艦アーガスで鹿児島を訪問した際には、島津図書・新納刑部・島津伊勢ら薩摩藩の家老クラスが対応した。その直後、今度は宇和島を訪問し、前藩主で賢侯の1人である伊達宗城と会談して親交を結んだ。横浜への帰途、サトウは兵庫で西郷隆盛と初めて会談し、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を入手した。また、西郷に対して、兵庫開港・長州藩処分問題を利用することによって幕府を追い詰める方策まで提言したのだ。

 さらに、2月7日から約2週間、サトウはミットフォードとともに、将軍による外国公使団の謁見準備の状況を視察し、かつ大坂での政治情報の収集を目的として再び兵庫に赴いた。そして、4月11日にサトウとミットフォードが、15日にパークス夫妻、ウイリス、第9連隊分遣隊他の大遠征隊が大坂に向け出発した。

 4月29日から5月4日にかけて、パークスを始め各国公使は大坂城で新将軍徳川慶喜に謁見したが、その際に慶喜は勅許を獲得していない兵庫開港を確約した。ちなみに、5月には慶喜は勅許を獲得して、最大の外交懸案を解決している。

 サトウは、パークスが慶喜との謁見によって、その見識と資質の高さに魅了され始めたことに危機感を抱き、8月26日、西郷に革命の機会を逸すべきではないと奮起を促した。さらに、サトウはフランスが幕府を援助する場合、イギリスはそれを阻止すると述べ、天皇中心の新国家体制への移行を期待するとの言質を与えている。