主人公よりも悪役に共感する?

 少年マンガには魅力的なライバルや強大な敵が欠かせません。悪役ながらも芯の通った主張や生き様に魅力を感じる方も多いでしょう。では、悪役のどこに魅力を感じるのでしょうか。

●ディオ

「悪のカリスマ」といえば『ジョジョの奇妙な冒険』の「ディオ」を外すわけにはいきません。彼の魅力は悪であることを肯定している点にあります。自分の本質が社会に不適合だと悟り「悪として生きるしかない自覚」があるものにとって、悪を肯定し自由に振る舞うディオの存在は救いです。

 ネットミームの影響もあってか、支配と暴力イメージが強いディオですが、実は精神的な成熟に伴って求めるものが変化しており、極めて人間的で奥深い面があります。第一部のディオは養子になった「ジョースター家」の財産を乗っ取ることを目的としていました。しかし悪事が露見すると石仮面の力で吸血鬼になり、今度は無敵の肉体で他者を屈服させようとします。目的が金銭から支配欲へと変わったのです。

 また、「ジョナサン」に敗れてから数百年後の現代に復活すると、今度はスタンド能力に目覚めて恐怖の克服、そして「天国」を目指します。

「俺は恐怖を克服することが「生きる」ことだと思う 世界の頂点にたつものは! ほんのちっぽけな「恐怖」をも持たぬ者!」

 第三部のディオは不老の肉体や時間を止めるスタンド能力に加え、膨大な財宝を所持しています。この時点でディオが欲しいものをすべて手に入れたのです。もしも「承太郎」の母「ホリィ」にスタンドの悪影響がなければ復活を悟られることなく、「ジョースター」一行に命を狙われることもなかったでしょう。

 そんなディオの深みが増したのは第五部です。「プッチ神父」の回想において、ディオはこう語っています。

「幸福とは無敵の肉体や大金を持つことや人の頂点に立つことでは得られないというのはわかっている」「真の勝利者とは天国を見たもののことだ……どんな犠牲を払っても私はそこへ行く」

 復活後、すべての欲求を満たしたディオは、自分が真に求めているのは幸福だと悟りました。プッチ神父との会話は作劇上の後付け設定かもしれませんが、ジャンプマンガにおいて、反社会的行動をともなう個人的欲求の充足だけでは、真の幸福に辿り着けないと悟った悪役は稀です。ディオを除けば『封神演義』の「妲己(だっき)」くらいではないでしょうか。

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悪役の「美学」に魅了される

●フリーザ

 ふたり目は『ドラゴンボール』の「フリーザ」です。彼は銀河に悪名高いフリーザ軍の首領です。自ら軍団を率いて活動するだけでなく、戦闘力の低い種族の惑星に子供の「サイヤ人」を送り込むなどして、惑星規模の侵略を進めていました。「悟空」もフリーザによって送り込まれたサイヤ人のひとりです。実はフリーザこそ『ドラゴンボール』の物語の本当の発端であり黒幕だったのです。

 彼の魅力をひと言で言い表すなら「変身」でしょう。最初は「私」という一人称を使って慇懃(いんぎん)無礼に振る舞っていましたが、激昂したり余裕がなくなると一人称が「俺」に変化し荒々しい口調になるなどします。また三段階変身によって戦闘力が変化する点も見逃せません。

 ディオと異なり、強さや支配という世俗的な欲求に留まったフリーザは、活動のスケールや魅力的な戦闘スタイルが世界中のファンに愛されています。マンガ界屈指の悪役だといえるでしょう。

●大魔王バーン

 3人目は『DRAGON QUEST―ダイの大冒険―』より「大魔王バーン」です。彼には大きな目的があります。それは魔界を覆う地上世界を侵略し、あるいは「黒の核晶」で完全に吹き飛ばして、太陽の光を魔界に届けることです。

 強大な実力と数千年の叡智(えいち)に裏付けられた魔王としての矜持(きょうじ)、懐の深さと冷徹さを持ち合わせるバーンは、魔族にとって理想的な支配者だといえるでしょう。

 そのような誰よりも満たされているバーンは、勝利にこだわるハングリーさも失っていません。「ダイ」との戦いで窮地に陥ると、大事に保存していた肉体を捨て、二度と元に戻れない巨体の怪物「鬼眼王バーン」になってまで勝利を追求しました。

「だが敗北よりはいい、敗北よりは」「大魔王バーンの名だけは守り通す」「ダイにさえ勝てれば、ダイに勝つことだけが全てなのだ」

 数千年を生きる大魔王でありながら一切慢心することなく、自分の目的と矜持のためにすべてをなげうって戦うバーンのあり方は、最強の「ディフェンディング・チャンピオン」です。

●活動的な悪役、受け身の主人公

 悪役には多くの主人公が持ち合わせていない特別な魅力があります。それは自分の信念や欲求に忠実に行動を起こす点です。その活動が社会に害を及ぼすものであったため「悪」として正義の側に立つ主人公に征伐されたのです。

 多くの作品において主人公の活動が「悪」へのカウンターになる以上、主人公は常に受け身にならざるを得ません。複雑な社会システムの一部として受け身になりがちな現代人にとって、周囲への影響を考慮せず自分のあり方を貫く悪役が魅力的に映るのは極めて自然なことだといえるでしょう。