ビバルディの『四季』と言えば、クラシック音楽のなかでも最も愛されている不朽の名作の一つだ。それぞれの季節を表す4つの協奏曲から成る音楽は、1725年に発表された当時と変わらず、今も人々の心を躍らせる。ところが、第二次世界大戦前は、音楽家の間でもこの曲を聴いたことがある人は少なく、アントニオ・ビバルディという名前すら、音楽史の脚注で言及される以外ほとんど知られていなかった。

 若かりし頃のビバルディは、イタリア、ドイツ、フランス、イングランドで、バイオリンの名手かつ優れた作曲家として知られ、もてはやされていた。その才能は留まるところを知らず、40曲以上のオペラと、数百もの協奏曲を生み出した。それらの曲はヨーロッパ中で演奏され、同じ時代に活躍したヨハン・セバスチャン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのように、ビバルディもまた、バロック音楽のスターとして輝いた。

 ところが、やがて人気が衰え、晩年のビバルディは貧困に陥った。そして1741年、失意のうちに他界する。それから長い間、ビバルディの名は歴史に埋もれたままだったが、数百年後、その音楽は再び日の目を見ることになる。

赤毛の司祭

 1678年にベネチアで生まれたアントニオ・ルーチョ・ビバルディは、幼い頃から肺が弱く、気管支喘息(ぜんそく)を患っていたと思われる。

 母親は仕立屋の娘で、父親は元々床屋だったが、後にサンマルコ寺院付きオーケストラに所属し、バイオリニストとして名が知られるようになる。そのような両親の下、アントニオは社会的「アウトサイダー」として育った。

 職業の選択肢が限られていたため、アントニオは10代の時にカトリック教会の司祭になる準備を始めた。しかし、この頃すでに父親はアントニオの類まれなバイオリンの才能に気づいていた。アントニオに最初にバイオリンを教えた人物は父親でほぼ間違いないが、彼は自分のコネを使い、町で最高の音楽家の下でアントニオにバイオリンのレッスンを受けさせた可能性が高い。

 ビバルディは同時に神学の学びも進め、20代前半で司祭になった。赤い髪の色から「赤毛の司祭」と呼ばれたビバルディは、そのまま何事もなければアマチュア音楽家の司祭という肩書のまま生涯を送っていたかもしれない。

 しかし1703年、そんなビバルディに思いがけずベネチアにあるピエタ慈善院での音楽教師という仕事の話が舞い込む。

 14世紀に創立されたピエタ慈善院は、孤児や棄児のための女子修道院付き女学校だった。そこで音楽の才能を見出された少女は選抜され、付属の合唱団や交響楽団に入るための訓練を受けた。ビバルディの時代、彼女たちの演奏はヨーロッパ全土で有名になっていた。この学校でビバルディは、司祭と音楽家という2つの役割を組み合わせた役職に就いた。

 リュート、チェロ、チェンバロの名手を数多く輩出した楽団は、ピエタ慈善院にとって大きな収入源となっていた。ビバルディは、音楽の指導のほかに、若い演奏家のための作品を多く楽団に提供した。それによって安定した収入を得たおかげで、より革新的なバロック音楽を書くことができた。こうしてビバルディと慈善院は、互いに有益な関係を築いた。

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