プロスノーボーダーの荒井daze(ダゼ)善正が、日本財団が主催するアスリートやスポーツに関する社会貢献活動を表彰するHEROs AWARD 2023を受賞した。荒井は骨髄移植を受けた自らの闘病経験を元に、一般社団法人SNOWBANKを設立。骨髄ドナー登録や献血への協力者を増やすことを目的としたプロジェクト『SNOWBANK PAY IT FORWARD』を立ち上げ、さまざまなイベントを企画・運営している。
 病魔に襲われてから、骨髄移植、闘病、復帰、恋人との結婚にいたるまでを荒井本人が赤裸々に明かした。(全2回の後編/前編へ)

「最初の3年くらいは鳴かず飛ばずでしたよ」

 DAZEを助けるための活動として『ダゼ募金』が立ち上がり、各地のコンテスト会場やショップにたくさんの募金箱が設置された。その中にはDAZE自身が出場を目指していた『X-TRAIL JAM IN 東京ドーム』のようなビッグコンテストも含まれていた。国母和宏、中井孝治、工藤洸平、村上大輔といった五輪代表クラスのスノーボーダーを始め、多くの人が賛同して支援金と回復を願う思いを寄せてくれた。

 DAZEは雪国ではなく千葉県船橋市で育った。元々はスノーボードと深い繋がりがあったわけではない。

 兄がサッカーをやっていて、子どもの頃にはJリーグも始まった。中学ではサッカー部に入りたいと思っていたのに、友達のお姉ちゃんに誘われて剣道部に入った。高校生の頃は同じ横乗りでもプロサーファーになりたかったという。地元には室内スキー場『ザウス』があり、友達に誘われてスノーボードをやってみたものの、当時はあまり惹かれなかった。

 その魅力に本格的にはまったのは高校卒業後に一般企業に就職してからだ。

「同僚に誘ってもらって行くようになったら、他の人よりも上手く滑れて、これはちょっといいなと。そこからあらゆる雑誌やビデオを見ました。もうスノーボードオタクでしたね」

 なかでも衝撃を受けたのが、2000年にNUTS FILMからリリースされた『Real Prayer』というビデオで、そこにはのちに北海道のイベントでDAZEに「帰れ」と言ってくれた安藤健次も参加していた。「自分も向こう側に行きたいという気持ちになった」というDAZEは思い切って会社を辞めた。自分もプロを目指そうと決意したのだ。

「最初の3年くらいは本当に鳴かず飛ばずでしたよ」

 石油ストーブやテレビデオを積み込んだワンボックスカーに住み込み、上越国際スキー場で一冬を過ごした。夏でも滑れると聞くと、初めてパスポートを取って右も左もわからないまま南半球のニュージーランドまで足を延ばしてみた。

予選落ちして気づいた自分の甘さ

 闘病を支えてくれた彼女と出会ったのもスノーボードがきっかけだった。茨城県にあった『カムイ竜ヶ崎スノーボードパーク』で「あ、可愛い子がいるなと。そうしたら次の週も、また次の週もいたんです」。だが、通ううちに知り合ったその彼女から誘われて参加したコンテストで、DAZEは赤っ恥をかいた。

「俺は3年間スノーボードしかしていない。周りの出場者は会社勤めの人とかもいたから、ちょっとカッコいいところを見せようと思ったら予選落ちしちゃったんです。うわー、俺は3年間も何やってたんだろうと(笑)」

 DAZEは自分の甘さに気づいた。

「会社まで辞めて始めたのに、それで満足しちゃってたんですよね。後悔しないように生きようと思っていると、人ってどんどん甘くなっちゃうものなんだなと。

 毎日滑って『今日はこれだけやったからいいだろう』『よし、後悔しないぐらいやったぞ』って。そうじゃなくて、前日の自分を翌朝には後悔して生きようと思ったんです。どれだけ滑って、トレーニングしても、『なんでもう一本滑らなかったのか』『どうしてあれにトライしなかったんだろう』と考えるようになりました」

 常に前の日の自分を更新していく。そんなふうに意識を変えると、技術はどんどん向上していった。予選落ちしたのと同じ会場の大会で1年後には優勝していた。ボードやウェアのスポンサーと契約を結ぶことができた。次第にフィルムクルーの一員として映像作品にも出演するようになった。口で言うだけのプロではない。自分が夢見ていたような、プロらしいスノーボーダーとしての階段をDAZEは着実に上っていった。

「思い描いていたことがどんどん実現していく。面白かったですね。憧れていた人と同じビデオに出て、20歳の頃に映像で見ていた先輩と滑って、大会に出ても知っている名前の人たちがいる。自分もここまで来られたんだと」

 一方でプロとしての活動が定着してくると、ジレンマも覚えるようになった。

「せっかくいい雪が来ているのに行きたくもない試乗会に行かされたり、うまく滑れなくなって、スノーボードがすごくつまんなくなってたんですよ。スポンサー契約やお金をもらうための“仕事“になってたんですよね」

ようやく見つかったドナー

 病魔がDAZEを襲ったのはちょうどそんな時期だった。

 ドナー探しを始めてから約6カ月、ようやく提供者が見つかった。フルマッチではなかったが、50代女性からの提供を受けて移植手術を受けられることになったのだ。

 ようやくゴールかと思いきや、そこはまだ入り口に過ぎなかった。移植前の準備から、いくつもの苦しい作業が待っていた。

 DAZEは足の神経が麻痺する慢性炎症性脱髄性多発神経炎という難病も併発していたため、スノーボーダーとしての復帰も見据えた上で神経内科で並行して治療を行った。そのせいで足先の自由が利かなくなった。虫歯があると移植時に感染症のリスクがあるため、「復帰した時に力が入らなくなるから嫌だな」と思いつつ、奥歯も4本抜いた。

 まずは抗がん剤や放射線を使って血を作る造血幹細胞を破壊する作業だ。ここでも吐き気や下痢、臓器へのダメージなど厳しい副作用が出る。血液を作る機能や感染に対する抵抗力を一切なくした状態まで下げているため、DAZEも静脈のカテーテルから細菌が入って高熱が出たという。

 そしてドナーから提供された細胞を注入し、その細胞が新しい血液を作り出すのを待つことになる。血が作れない間は献血者からの輸血でやりくりする。

「最初は新しい血液の免疫が僕の体を異物だと思って攻撃するんです。それでばーんと42℃くらいの熱が出る。それが1カ月ぐらい続きました。そこまで熱が出ると、人って目が冴えて全然眠れないんです。いっそのこと気絶したいぐらいしんどかった。もうモチベーションは生き残って社会を変えてやるってことしかなかったですね」

 壮絶な苦しみを乗り越えた手術から5カ月後、DAZEはスノーボードを履いて雪の上に立っていた。

「先生、ちょっとスノーボード行っていいですか?」

「本当にちょっとだよ。絶対に頭打たないでね。血小板の値が低いから頭打ったら死んじゃうよ」

 DAZEは先生の許可をもらうと北海道行きの飛行機に乗った。

 DAZEが復帰するぞ!とゲレンデには大勢の仲間たちが集まってくれた。みんな動画も撮っていたので、DAZEはついついテンションが上がってジャンプしてしまった。しかもスピン付きで……。先生が見ていたらきっとこっぴどく叱られただろう。

何のために滑るのか

 久しぶりに感じた「滑れる幸せ」。それは何にも代えがたいものだった。

「病気を乗り越えて復帰したら、幸せの基準がリセットされていました。自分が滑り続ける理由も見つかった。お金やスポンサー契約のためじゃない。自分が滑り続けることで、移植を受けてもここまで元気になれるというのを発信したいと思いました。それは職業というより人生、ライフですよね」 

 術後はもう昔ほどうまくは滑れなくなった。足首から先は麻痺していて、スリッパを履きながら歩くのも難しいぐらいだったから仕方がない。自分と向き合い続けた闘病生活を経て、そんな状態を受け入れることもできるようになった。

「27歳の現役バリバリの頃に戻ろうというイメージでやっていたら、現実とすれ違いまくって自己肯定感が下がっていったと思うんです。でも、そうじゃない。一分一秒が貴重な時間で、今の自分ができることって何だろうというスタンスでやれば、周りのライバルと自分を比べることもなくなる。失ったものは多かったけど、そこから得たものも絶対にあるので」

 病室で立てた誓いを叶えるために、手術から3年が経った2011年に骨髄ドナー登録や献血への協力者を増やすことを目的としたプロジェクト『SNOWBANK PAY IT FORWARD』を立ち上げ、2015年には一般社団法人を設立し、さまざまなイベントを企画・運営するようになった。10年以上続けている『東京雪祭』では、東京・代々木公園を会場にスノーボードコンテストなどを行い、ドナー登録や献血の問題に触れる機会のない層に対しての啓発活動を展開。会場では毎年多くの人が新規にドナー登録し、献血に協力する姿が見られる。

恋人からは「結婚すんの? しないの?」

 恋人とはどうなったのか。

 手術を受けて雪上に復帰してからというもの、気ままに滑り倒していたDAZEはある日、彼女に問いただされた。

「結婚すんの? しないの? いや、いいんだけどさ。私まだ次に行けるから、はっきりしてもらっていい?」

 というかな〜り強めの確認があり、骨髄移植から約1年後、2人は晴れて結婚した。

「一応プロポーズは移植前にしてたんですよ。ちゃんと指輪も渡してました。でも骨髄移植が終わって冬になったら好き放題に滑り倒してたので、そんなふうに言われてしまいました(笑)」

 夫人は今もDAZEの活動を支えてくれている。SNOWBANKを立ち上げて数年後、大きな赤字を出した際にも「本当に素晴らしい活動だから続けたほうがいい」と強く背中を押してくれたという。

離婚届か、履歴書か…

 ただし、一つ条件を出された。

「プロスノーボーダーとSNOWBANK、どちらも続けるなら離婚届か履歴書どっちか書いてね」

 履歴書の方を選んだDAZEは、それから大手保険代理店の面接を受けて採用された。そこでは順調に成果を残していき、店長を任されるまでになった。SNOWBANKの活動が忙しくなると続けられなくなったが、その時の経験を生かし、今でもDAZEは別の会社でライフプランニングや発達障害児童の進路相談を行なっている。

 SNOWBANKの方もどんどん広がりを見せ、DAZEはDAZEBANDという自らのロックバンドを率いて、音楽方面にも進出している。代々木公園でのスノーボードイベントと同様に、新規の献血・骨髄ドナー獲得のためには「献血・骨髄バンク“らしくない”場所に飛び込んでいかなければ」という信念に基づいての行動。トーキョ―タナカ、サンボマスター、10–FEET G-FREAK FACTORYなど多くのバンドの力を借りながら、献血・骨髄バンクドナー登録啓発のためのイベントを定期的に開催している。 

 それらすべての根幹にはスノーボーダーとしてのDAZEがいる。

「志の仕事はSNOWBANK。仕える仕事はライフプラン事業。私事の仕事はスノーボードだと思っています。プロスノーボーダーとしては、今まで残してきた写真を超えるものを残したいですね。自分は動画よりも写真映えするタイプ。だから納得できる一枚を、自己満足じゃなく、どこかの誌面を飾れるようなものをいつか残したいんです」

荒井daze善正(Arai daze Yoshimasa)

1979年3月10日、東京都生まれ。16歳の時にスノーボードを始める。24歳からプロスノーボーダーとして国内外で活動。2007年「慢性活動性EBウイルス感染症」の診断。2008年に骨髄バンクを通じて骨髄移植。現在はプロスノーボーダーとして復帰。また骨髄バンクの普及やドナー登録推進のための活動にも精力的に取り組んでいる。「daze(ダゼ)」の愛称は、ニュージーランドで知り合った小学生時代の国母和宏に、当時のバラエティー番組「学校へ行こう!」の登場人物にちなんでつけられたという。

文=雨宮圭吾

photograph by Hideki Sugiyama