富沢祥也という才能あふれるライダーがいた。1990年、千葉県旭市に生まれ、高校卒業と同時にロードレース世界選手権の250ccクラスにデビューすることが決まった。そして、卒業式を待たず、2009年2月、成田空港から同級生に見送られ、彼は所属することになるフランスの「チーム・CIP」の本拠地、マルセイユにほど近いアレスの街へ向かった。

 以来、富沢はチームのエースとして活躍する。1年目はアプリリアとホンダのワークスマシンがタイトル争いをする中で、ホンダの市販レーシングマシン「RS250R」で戦った。このマシンでは優勝争い、表彰台争いに加わるのは難しく、15位まで与えられるポイントを獲得するのも容易ではなかったが、10位を最高位に総合17位という結果を残した。

 数字以上に富沢の評価は高く、チーム・CIPは富沢が他チームに引き抜かれることを心配し、どこよりも早く翌年の契約を済ませた。10年からはイコールコンディションを目指し、250ccクラスは4ストローク600ccのオフィシャルエンジンを搭載するMoto2クラスにスイッチすることが決まっていた。

 その最初のレースとなった開幕戦カタールGPで、富沢は初優勝を達成。以後も素晴らしい走りを見せるが、この年の9月、イタリアのミサノで開催された第11戦サンマリノGPのレース中に転倒。後続車に轢かれ、帰らぬ人になった。このとき、富沢は19歳。グランプリにデビューして、わずか27戦目のことだった。

 もし、富沢が生きていたらどんな選手に成長したのだろう。Moto2クラスでチャンピオン獲得が期待されたことはもちろん、最高峰MotoGPクラスでも活躍するはずの逸材であり、久しぶりにわくわくさせてくれるライダーだった。

思い切りの良すぎる走りに魅了され

 富沢との出会いは彼が高校生の頃に出場していた全日本ロード時代に始まるが、その頃は、国内のレースの取材になかなかいけないこともあり、年に1度か2度会う程度だった。その後、グランプリへの参戦が決まり、ヨーロッパ出発前に彼の地元で初めて富沢祥也というライダーをしっかり取材した。

 その後、モトクロストレーニングの取材もしたが、思い切りの良すぎる走りに魅了された。わずか数回の取材で僕と彼の距離は一気に縮まり、僕は「しょーや」と呼ぶようになる。デビュー前にスペインで行ったテストでは、グランプリ初経験のしょーやの質問攻めが始まり、それからは、これまで見てきたライダーたちの走り方や考え方などなど、あれやこれやを伝授するようになっていくことになるのだ。

 しょーやは頭の回転が速く、物怖じせず、だれにでも心を開く。人なつっこく、明るい性格で、すぐにパドックの人気者になっていった。千葉県の進学校である県立匝瑳高校英語科に進学したのもグランプリ参戦を視野に入れたもので、日本人のサポートがひとりもいないフランスのチームに単身乗り込み、あっという間にチームとスタッフの信頼を得ていくことになる。それが彼の才能を開花させていくスピードにもつながった。

 全日本ロード時代、そして世界戦にデビューした1年目はマシンに恵まれたとは言えないが、イコールコンディションのMoto2クラスになってからはしょーやの類い希な才能がリザルトに反映されることになる。Moto2クラスデビュー戦のカタールGPで優勝したときに彼は、こう言っていた。

「Moto2になってストレートで抜かれなくなった。250ccクラスではストレートでアプリリアやホンダのワークスマシンにズバズバ抜かれたけど、Moto2になってからは、みんな同じスピード。めちゃめちゃ楽しい」

センスの良さはピカイチ

 全日本ロード時代からしょーやはスタートが上手くて、1周目からスピードを上げていく。仮にグリッドが悪くても、レース序盤にぐいぐい前のライダーを抜いていく。これは速いライダーの特徴であり、速いライダーだから為せる技でもある。パフォーマンスの劣るバイクでレースをしてきたことも大きく関係するが、しょーやのセンスの良さはまさにピカイチだった。

 その半年、しょーやは転倒は多かったが転倒した理由をしっかりわかっているライダーであり、マルク・マルケスのように転倒の影響をまったく感じさせないリカバリーを見せる数少ないライダーだった。

 しょーやは3人兄弟の長男。父は設備業を営む。祖父、祖母、両親。近所には親戚が住んでいて家はいつも賑やかであり、家族の愛につつまれて育ったのだろうということがうかがえる、気持ちのいいまっすぐな青年だった。

 当時、MotoGPクラスでは、ヤマハのバレンティーノ・ロッシとホルヘ・ロレンソが熾烈なチャンピオン争いを繰り広げていた。いつも仲間に囲まれているロッシに対して、ロレンソは孤高のライダーだった。言葉を変えれば「ともだちのいないライダー」だったが、ロレンソが過去愛用していたゼッケン「48」をしょーやがつけていたことから、ロレンソと3歳年下のしょーやは友達になっていく。

 ケータリングのスタッフやトラックドライバーなどなど、パドックで働く人ならだれもが、気さくで人なつっこいしょーやに魅了されていたが、「ホルヘさんと仲はいいです」というしょーやには本当に驚かされた。これほど多くの人を虜にしたライダーを僕はほかに知らない。

 実際、しょーやが亡くなったあと、ロレンソはメーカーこそ違ったがヘルメットをしょーやと同じデザインにして、次戦のアラゴンGPに出場している。この大会はサーキットを訪れていたファン・カルロススペイン国王も出席して追悼式が行われ、世界的なニュースになった。

「しょーやが生きていたら…」

 しょーやが亡くなったときの悲しみは、いまでも言葉には出来ない。サンマリノGPの決勝レースで転倒し、後続車2台に轢かれ、サーキットに近いリッチョーネのチェッカリー二病院に運ばれたが、轢かれたときの衝撃で大動脈が破裂、出血がひどかったことで帰らぬ人になった。

 いまも海外に遠征する前に千葉県旭市のしょーやの実家を訪れ、家族としょーやの思い出話に花が咲く。そして「しょーやが生きていたら、いまごろどのチームにいたかなあ」と思うのもいつものことである。

 19歳という若さ。志半ばにして逝ったしょーやのために、翌年、僕はしょーやの写真集を出版した。その冒頭に書いた文章を再び掲げたいと思う。

走る才能は天下一品。勢いあまってすぐに限界をこえていくところが唯一の欠点だったが、世界の頂点に立つライダーの若いときというのは、いつだって、そういうものだ。

物怖じしない明るい性格。それでいて繊細だった。

速いヤツは最初から速いというのが、この世界の決まり文句である。

初めて彼の走りを見たとき、僕は、世界チャンピオンになれるライダーかも知れないと思った。

文=遠藤智

photograph by Satoshi Endo