春夏あわせて優勝9度。今では甲子園でも“常勝軍団”と呼ばれるまでになった名門・大阪桐蔭。センバツでも優勝候補に挙げられるチームで「背番号1」を担う平嶋桂知が中学時代に師事していたのは、33年前、同校がセンバツ初出場時のエースだった和田友貴彦コーチ。初戦でノーヒットノーランを達成するなど日本に衝撃を与えた男が語った、かつての「衝撃の記憶」とは。《NumberWebインタビュー全2回の後編/前編から読む》

 春4回、夏5回の日本一。

 高校野球を代表する名門校であり、甲子園に出れば必ず優勝候補に挙げられる。和田友貴彦は、母校の大阪桐蔭がこれほどの常勝軍団になるなど想像していなかった。

「自分たちが甲子園に出てから丸10年、出られていなかったわけですし。西谷(浩一)監督と有友(茂史)部長は、本当にすごいチームを作られたなと思います」

 和田は、大阪桐蔭野球部が産声を上げて、まだ4年しか経過していない1991年に甲子園に出場した選手である。

 長澤和雄が率いたチームは、春にベスト8、夏は初出場初優勝の快挙を成し遂げた。

 のちに「超」が付くほどの名門となるチームの黎明期において、和田は甲子園で強烈なインパクトを残している。

初出場のセンバツで戦っていた「肩の痛み」

 91年3月28日。仙台育英とのセンバツ初戦を間近に控えた和田はブルペンにいた。

「どうやって投げようかな」

 前年秋の大阪府大会後から肩の痛みと戦っていた。

 関節が不安定で脱臼や亜脱臼を起こしやすく、筋肉もつきづらい、いわゆるルーズショルダーの症状だとその時点でわかってはいた。しかし、当時はインナーマッスルの強化といったスポーツ科学がまだ発展途上にあり、できることと言えば肩回りのアウターマッスルを鍛えるくらいだった。

 近畿大会ではサイドスローという特性を生かしてスライダーを多投し、初戦の報徳学園戦で完封できた。それも、和田からすれば「だまし、だまし投げて、たまたま抑えられた」ようなパフォーマンスだったという。

 センバツの足音が聞こえてきても肩に痛みが走る。本格的なピッチングができないなか、初戦の数日前にチームが手配してくれた鍼治療も、その時は気休めでしかなかった。

 苦悩するなかセンバツ当日を迎え、ブルペンで恐る恐るボールを放つ。すると、驚くほど肩が軽くなっていた。

「『あれ? 痛くない』って。秋みたいにだまし、だまし投げようと思っていたところ、信じてもらえないでしょうけど、鍼を打ったことがよかった」

 試合前のブルペンでは、「また痛くなったら」という疑念から腕を振り切れずにいたが、いざ本番のマウンドに上がりリミッターを解除すると、やはり肩に痛みはなくなっていた。

 仙台育英は強打が評判のチームだったが、和田からすれば「普通に投げられる」だけで十分だった。3回までは相手バッターの反応などを見ながら手探りで投げていた和田が、完全に乗ったのが4回からだ。

 先頭バッターにストレートのフォアボールを許すも、続くバッターをショートゴロのゲッツーで仕留めたところで、ふと思う。

「今日は調子いいな。肩も痛くないし、とりあえずゴロを打たせることだけ意識しておけば、そんなに打たれないだろうな」

 横から右腕をしならせる。

 最速141キロのストレートと、アウトコースへ鋭く曲がるスライダーのコンビネーション。和田は淡々と凡打の山を築いていく。

「あ、終わった。とりあえず勝ててよかった」

 9回2アウト、ランナーなし。

 1ストライクからの2球目。スライダーを三遊間の深い位置に飛ばされたが、ヘッドスライディングしたバッターランナーの両腕がやや広がっていたことに救われ、文字通り間一髪のタイミングでアウトとなった。

「『あ、終わった。とりあえず勝ててよかった』って、記録よりそっちの気持ちのほうが強かったと思いますね」

 27人のバッターに対し、球数は101球。内野ゴロ14、内野フライ1、外野フライ2、奪三振9、フォアボール1。センバツ史上10人目の快挙。限りなくパーフェクトに近いノーヒットノーランを達成しても、和田にはその喜びより投げられた安堵が勝っていた。

 センバツで衝撃的な甲子園デビューを飾った和田は、「ノーヒットノーラン男」として全国にその名が広がる。

 夏が近づくにつれ周囲の期待がプレッシャーや焦りへと繋がり一時は不振に陥ったが、甲子園では準々決勝で「東の横綱」と呼ばれた帝京相手に2失点完投を演じるなど、エースとしての役目を果たした。

 大会トータルで評価すれば、4試合に登板して防御率3.24と、3試合で0.45だったセンバツほどのパフォーマンスは発揮できなかったかもしれない。

 しかし、ストレートの最速は145キロまで伸びるなど成長は見せていたし、なにより肩の痛みが再発せず投げ切れたことに意義があった。

 その和田の右肩がまた鈍り始めたのは、東洋大の2年生になってからだった。

 1年生から東都大学リーグのマウンドに立ち、2年生の春は先発として、秋には主にリリーフとしてフル回転したが、違和感を抱えながら投げていた肩はいよいよ悲鳴を上げた。

「夏くらいまではよかったんですけど、秋のリーグ戦の途中あたりから『ちょっと痛いかも』となって、終わった頃には投げられないくらいになっていましたかね」

 スポーツ医学で有名な大病院を回る。ファーストオピニオン、セカンドオピニオン……診断結果は、どこも「肩の腱が損傷している」で共通していた。そして、医師たちは「手術をしたほうがいい」と進言する。

和田が選んだ「手術をしない」という決断

 ピッチャーにとって肩は命だ。ましてや和田は、ルーズショルダーである。プロ野球でも元ヤクルトの伊藤智仁や元ソフトバンクの斉藤和巳がそうであったように、一度、メスを入れれば実戦復帰まで長期間のリハビリを強いられるし、トップフォームに戻る確証があるとは言い切れなかった。

 和田は手術をせず、怪我と付き合いながら投げることを選んだ。

「あの頃はまだ、痛いと言っても投げられていたんですよ。だから、『自分で鍛えながら、だまし、だまし投げられるなら投げよう』と」

 大学3年になってからも、自分に適した治療を施してくれる病院を探した。だが、どこも「手術」という条件がつきまとい、回避する。高校時代の“奇跡”に託すように富山まで鍼治療に向かったが効果がなく、「やっぱ、あの時だけか」とうなだれる。結果的に接骨院や整体で痛みを和らげながら投げることしかできないまま、大学生活を終えた。

「大学までで野球を辞めても、その先がない」

 怪我と格闘しながらそう思っていた和田にとって、東芝府中野球部から誘いがあったのは僥倖だった。1年目こそ都市対抗野球1次予選で登板するなど、いつも通り「だまし、だまし」の相手をかわすピッチングで抑えられる試合もあったが、続かなかった。

 2年目以降はほぼ投げられなくなった。部坂俊之、戸部浩、清水直行と、のちにプロ入りする有望なピッチャーが入部したこともあって、試合での和田は相手チームの情報を収集する「データ班」が役割となっていた。

 大学時代にマークした最速148キロのストレートは、120キロ程度まで落ちていた。

 そして、社会人4年目の99年。東芝府中野球部が解散し、東芝野球部と統合すると同時に、和田は引退した。

同世代はイチローら「黄金世代」。ケガがなければ…?

 東芝の府中工場で社業に専念するようになって25年。現在は製品のコストや生産性など、経営の指標を決める部署に従事する。

 和田と同世代には、イチローや小笠原道大、中村紀洋らプロの名選手が数多くおり、「黄金世代」と呼ばれている。もしかしたら、和田もそのうちのひとりに名を連ねていたかもしれないのだと思うと、悔やまれる。

 そんな空想を伝えると、和田は「いや」とあっさりと否定した。

「確かに『肩を壊してなかったら、プロに行ってただろうな』とは思いますけど、結局、その後のことを考えたらね。もし、プロでダメだったら何の保障もないじゃないですか。昔はよく言われたんですよ。『もったいないよね』って。でも、社会人まで野球をやれたし、今もこうして会社で働けているんで、それでよかったなと思っていますけどね」

 50歳となった今では、高校をはじめとする現役時代のことをあまり聞かれなくなったし、自分でも思い出すこともほとんどない。

 だが、鮮烈な記憶はすぐに蘇る。

 現代ではスマートフォンなどでインターネットに接続すれば、すぐに過去と繋がる。

 1991年の大阪桐蔭、和田友貴彦。当時の彼と出会えば、誰だって唸る。

 すごいピッチャーがいたんだな、と。

文=田口元義

photograph by (L)Asahi Shimbun、(R)Genki Taguchi