2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。プロ野球部門の第3位は、こちら!(初公開日 2024年3月3日/肩書などはすべて当時)。

戦力外通告、飼い殺し、理不尽なトレード……まさかのピンチに追い込まれた、あのプロ野球選手はどう人生を逆転させたのか? 野茂英雄、栗山英樹、小林繁らのサバイバルを追った新刊「起死回生:逆転プロ野球人生」(新潮新書)が売れ行き好調だ。そのなかから野茂英雄の逆転人生を紹介する【全3回の中編/前編、後編も公開中】。

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 まだ日本からは遠すぎてリアリティのなかった大リーグを目指す、と堂々と口にする若者の出現。それは、奇しくも昭和プロ野球の象徴とも言える長嶋茂雄に対して、新時代の到来を予感させる言葉でもあった。

 藤井寺球場のロッカーにはメジャーリーガーの野球カードを飾り、トレーニングの合間にロジャー・クレメンスらメジャー選手のダイジェストビデオを熱心に見る。ファッションも西心斎橋のアメ村で買ったMLBやマイケル・ジョーダンのTシャツを好んで着た。唯一大リーグのような対決ができる西武黄金期の四番・清原和博にはとことんストレート勝負にこだわり、その力と力の勝負は“平成の名勝負”と注目される。

 当時、近鉄時代の野茂英雄の投球を捕手の真後ろから見ていた、元パ・リーグ審判員の山崎夏生は、「週刊ベースボールONLINE」で伝家の宝刀フォークボールの衝撃を回想している。

「18.44メートルの真ん中に来るまではストレートの軌道とまったく同じ。球速は130キロ台ながら、リリースしたときは直球のように伸びる感じが特徴的でしたね。そこからブレーキが効いたようにストンと落ちる。打者と同じように、真後ろでジャッジしているわれわれも直球とフォークの見分けがつかなかった」

 毎年当たり前のように最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得する一方で、普段は朝まで飲むこともあったが、登板前になると激しいトレーニングで自分を追い込む背番号11。それを見た野手陣は、アイツが投げる明日は絶対負けられんと外出を控える。まさにエースだった。

「野茂は太りすぎや」決裂の予感

 圧倒的な実績を残し続けるうちに、野茂にもトップ選手としての振る舞いを求められたが、プロ入り前から変わらず自分が納得のできないことは断固としてやらない頑固さを持っていた。

 プロ2年目のオフ、体を休めることを優先させようと日韓野球の代表を辞退するが、連盟から「リーグの顔として出てもらわなければ困る」と要請されると、投げることはなくベースコーチャー役を務めた。

 3年連続最多勝に輝いた1992年は、NHK紅白歌合戦の審査員席からステージに向かってボールを投げ入れる大役を務め、契約更改では「誰かが貰うことで、後からついていく者が上がっていくと思う。それに、誰も(不満を)強く主張しない近鉄の風潮をボクが変えたかったこともある」(「週刊ポスト」1993年1月22日号)とチームを引っ張る1億円プレーヤーの自覚を語った。

 名実ともに球界を代表する大エースになった野茂だが、4年目の1993年シーズンに転機が訪れる。プロ入り時の恩師・仰木彬が近鉄を去り、往年の300勝投手・鈴木啓示が新監督に就任したのだ。

「いまのまま、野茂が勝ち続けられるほどプロは甘くない。近いうちにダメになる。いや、もうその兆候は出とる。一番は太りすぎや。走り込みが完璧に不足しとる。本人はウエートトレで、と考えているようだが、やっぱり走らな。投げ込みもそうや」

 前半戦は左足首の捻挫もあり勝ち星が伸びなかった背番号11に対して、鈴木監督はワシの現役時代はとことん走り込んだもんやと度々苦言を呈す。

球団幹部「キミはエースではない」

 それでも、野茂は心折れず後半戦に驚異の巻き返しをみせる。10月1日のロッテ戦で打球を右側頭部に受け頭蓋骨骨折の診断を受けるも、その8日後に144球を投げて勝利投手となる超人的なタフさをアピールし、次の中4日の登板では182球で16勝目、さらに中2日で上がった西武戦では177球の熱投で17勝目と、近代野球では異例の鬼気迫る投げっぷりで4年連続の最多勝を手中に収めるのだ。

 だが、相手の西武・森祇晶監督から「野茂君のためにゲームをやったようなもの。何の価値もないタイトル」と酷評され、球団幹部には「キミのことはエースとして扱っていない。最多勝のタイトルは意味がない。内容がない」と言い放たれた。追い打ちをかけるように、信頼していた立花コンディショニングコーチは、選手の調整法をめぐり鈴木監督とぶつかり退団。野茂は球団に対して「なぜやめさせたんだ?」と怒り、翌春には立花氏と個人契約を交わし、自主トレに同行させた。今思えば、いくつもの決裂の伏線が存在し、不穏な雰囲気のまま、野茂は1994年の近鉄ラストシーズンを迎えることになる。

野茂vs鈴木「ついていけません」

 鈴木啓示と野茂英雄。とにかくふたりの偉大な大投手は水と油だった。まるでバブル全盛期のエース営業マンが管理職となり、Z世代とぶつかるような価値観の相違とジェネレーションギャップ。ひたすら走り込みと投げ込みで今の地位を築いた鈴木にとって、ウエート・トレーニングに没頭し、大リーグのビデオを見る若者のことは理解しがたかった。野茂は自著『僕のトルネード戦記』(集英社)の中で、当時の近鉄で感じた違和感を吐露している。

「近鉄のあるコーチの口癖なんですが、野球を会社にたとえるなら、監督は社長、コーチは部長か課長、そして選手は平社員であると。ヨソの球団はどうなのか知りませんが、こういう考え方にはついていけません」

 自分が上の立場だからと一方的に叱るのではなく、選手を理解して気持ちよくプレーする環境を作るのが首脳陣の仕事ではないのかと野茂は憤るのだ。

まさかの“交渉決裂”

 プロ5年目の94年、春先から肩の違和感を訴え続けるも、開幕の西武戦であわやノーヒットノーランの快投を見せるが、9回裏に先頭の清原に初安打を許し、一死満塁のピンチを招くと鈴木監督はあっさり無失点のエースを交代させる。ブルペンでまさかの交代に動揺したリリーフの赤堀元之は、伊東勤に逆転サヨナラ満塁弾を浴びる最悪のスタート。

 それでも傷心の背番号11はハーラートップ争いに踏み止まり、7月1日の西武戦でプロ野球ワースト記録の1試合16四球を出しながら、3失点完投勝利。なんと191球を投げた。

 もはや監督とは満足に会話を交わさない冷戦状態にあったが、野茂は一度でいいから、近鉄の仲間たちと優勝を味わいたくて懸命に投げたのである。「これが野茂。野茂にしかできんピッチングや」なんて喜ぶ鈴木監督だったが、さすがに無理がたたり7月15日の登板で右肩の違和感を訴え2回で降板。二軍調整後に復帰した8月24日の西武戦でも球速は130キロ台止まりで、3回で右肩痛を訴えマウンドを降りた。結果的にシーズンラスト登板となるが、この直後に野茂は、連日1時間のジョギングを自らに課し、3カ月で10キロ近い減量に成功する。その鬼気迫るトレーニングがなにを意味するのか、周囲はエースの胸中を知る由もない。

 嵐の予兆は確かにあったのだ。「球団がどう考えてくれているか、ですから。今のボクの口からは何ともいえません」と秋口から語り、肩痛の公傷扱いが焦点になると思われた1994年オフの契約更改。

 12月13日の一度目の交渉では、野茂サイドが希望した複数年契約は球団側に却下され、1000万円ダウンの年俸1億3000万円の単年契約を提示される。そして、21日の二度目の交渉は40分で決裂し、野茂の「サインしていません。複数年契約以外の要求も出しました。内容は今はいえません」という会見から、スポーツ新聞には「野茂大リーグ入り直訴」や「代理人交渉を要求」などの見出しが躍り、騒ぎは近鉄が予想だにしなかった方向へと展開していく。

 この詳細を報じる「週刊ベースボール」1995年1月23日号では、黒幕は「かつて日本の球団でプレーしたこともあり、血のつながりはないが父親が球界の大物といえば、事情通ならすぐに名前と顔が浮かんでくる」と名前こそ出していないが、エージェントの団野村の存在にも触れている。任意引退選手は旧所属球団の同意がなければ他球団でプレーすることはできないが、米国行きとなればその限りではないという野球協約の抜け道を突く流れに、「ウチと契約するしかないじゃないか」と高をくくっていた近鉄側も焦った。

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO