井上尚弥が再び“世界1位”に返り咲いた――その吉報は、想定よりも早く日本のファンに届けられた。米老舗ボクシング誌「リングマガジン」でパネリストを務める杉浦大介氏が、激論の舞台裏を明かす。

 アメリカに降り立った瞬間、井上尚弥(大橋)のパウンド・フォー・パウンド(PFP)ランキング1位浮上を支持する数々のメールが目に飛び込んできた。

「井上、井上、クロフォード、井上、クロフォード、井上……」

 東京ドーム興行の取材を終えて、羽田空港からニューヨークに向けて帰路に着いたのは井上対ルイス・ネリ(メキシコ)戦の翌々日にあたる5月8日のこと。チェーンメールで選定委員(パネリスト)が意見を出し合う形で行われるリングマガジンのランキング選考が本格化するのは、ちょうど筆者が機内にいるタイミングだった。

 昨夏以降、テレンス・クロフォード(アメリカ)がPFP1位を守ってきたが、2位につける井上が逆転するかどうかが今回の焦点。6日、東京ドームで行われたスーパーバンタム級の4冠戦で井上は初回に痛烈なダウンを喫したものの、ネリから3度のダウンを奪い返して劇的なKO勝ちを飾っていた。世界中に散らばるパネリストたちはこの勝利をどう評価するか。2019年以降、その一員に加わった筆者はどんな結論を出すべきか。

「クロフォードが1位A、井上は1位Bだ」

 話し合いはまず英国のアンソン・ウェインライト氏が全階級とPFPの叩き台を作るところからスタートする。ウェインライト記者はPFPに関してはこう記していた。

「井上は初回、(ダウンを喫して)母国の人々に恐怖を味わわせ、その後にネリを突き放した。私にとってクロフォードが1位A、井上は1位Bだ」

 両者が1位に相応しい実力者だとしても、順番的にはこれまで通り、クロフォード、井上ということか。筆者は今回、井上の1位浮上をプッシュする方向に傾いていたが、機内Wi-Fiでウェインライト氏の記述を見た時点では、1、2位の順位が据え置きになると予想せざるを得なかった。ところが――。

 乗り継ぎのミネアポリスで再びiPhoneを開くと、冒頭で述べた通り、井上をサポートする声が次々と飛び出して来た。口火を切ったのは、リングマガジンの元マネージングエディター、トム・グレイ氏。スコットランド出身のグレイ氏の意見はこうだ。

「私は井上の1位に1票を入れたい。バド(クロフォードの愛称)とウシクは2020年代に入って4勝0敗だが、井上は8戦全勝(8KO)。リング内の功績では上回っている。ネリ戦は彼のキャリアでトップ3に入るパフォーマンスだったと思う。ダウンから回復し、すぐにあのように適応した。SNSの風変わりな世界では、“井上はダウンするくらいだからたいしたことがない”などと言われる。ただ、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)はソニー・リストンを叩きのめす8カ月前に182パウンドのヘンリー・クーパーにダウンを奪われたことがあった。ノックダウンはボクシングにはつきものだ。(ダウン後の)井上の適応は見事だった」 

 ここで議論の流れが変わると、アメリカのマイケル・モンテロ氏もグレイ氏と同様、2020年以降の試合頻度を理由に井上を支持する。加えて「井上の過去3戦の相手はすべてリング誌のスーパーバンタム級ランキングでトップ5に入る選手たちだった」と対戦相手の質の高さも指摘し、“モンスター”を強烈に後押ししたのだった。

杉浦氏の投票内容「井上は2度も破壊した」

 その後、アルゼンチンのディエゴ・モリーリャ氏、アメリカのブライアン・ハーティ氏、ジェイク・ドノバン氏、エイブラハム・ゴンザレス氏、ダグラス・フィッシャー編集長が次々と井上1位を表明。筆者も乗り継ぎ先のミネアポリスで少し落ち着くと、満を持して以下のように“モンスター”に1票を投じた。

「去年の7月、私はクロフォードが井上のわずかに上と見たが、以降、クロフォードは何もしていない(8月に次戦が決まったが)。その間、井上は質の高い相手を2度も破壊した。井上を昇格させるに十分な理由であり、その試合頻度に感謝したい」

 ウェインライト氏以外にもクロフォード1位を主張したパネリストがいなかったわけではない。イギリスのトリス・ディクソン氏、アメリカのアダム・アブラモビッツ氏はクロフォードを支持したが、それでも現地9日夜時点での1位票で井上が8−3と大差をつけた。

 まだ12人のパネリスト全員が投票したわけではなかったが、もう逆転は不可能。そんな経過を見て、もともと現地10日朝にランキング更新を予定していたリング誌は9日のうちに“井上王座返り咲き”の発表に踏み切った。

 井上を愛する日本のファンに敬意を表し、日本時間の金曜朝にインパクトの大きな形で公表したいという意図があったのかもしれない。

軽量級離れしたKO劇に賞賛の声

 こうした流れを見れば明白なように、今回、井上がクロフォードを凌駕する決め手となったのは試合頻度の違いだった。昨年7月、クロフォードはエロール・スペンスJr.(アメリカ)を、井上はスティーブン・フルトン(アメリカ)をそれぞれ完璧な形でKOした。その際は対戦相手の格の違いもあってクロフォードが1位に推されたが、36歳になった通称“バド”は以降、一度もリングに立っていない。8月、スーパーウェルター級への転向、いきなりのタイトル挑戦が内定しているが、その試合が予定通りに行われたとしても1年以上、試合から遠ざかることになる。

 その間、井上は昨年12月にマーロン・タパレス(比国)、先日はネリと階級トップクラスの選手を連続KOした。短期間にバンタム、スーパーバンタム級の4団体統一を果たし、圧倒的なKO劇を続ける“モンスター”が評価されたのは当然だろう。もともと井上、クロフォードの差はわずかと目されていたのだから、これだけ試合ペースに差がつけば順位が逆転するのは自然の流れだった。

 アクティビティ(試合頻度)の違い以外にも、上記通り、グレイ氏はネリ戦でダウンを喫した後の井上の適応能力を絶賛していた。また、アルゼンチンのモリーリャ氏は「稀有なパワーと勇気が井上をより特別な選手にしている。ネリを沈めたコンビネーションは近年、他の誰もお目にかかっていない」と述べ、軽量級離れしたKO劇でファンを魅了し続ける井上のインパクトを特筆していた。

 これだけの要素が揃えば、まだ満票ではなかったとしても、もう誰にも文句は言わせまい。

 2年前、井上はノニト・ドネア(比国)との再戦後に一度はPFP1位に浮上した。その際は2位のオレクサンデル・ウシク(ウクライナ)とわずか1票差の大激戦であり、そんな経緯を経ての1位獲得に理想の高い井上は満足できなかった。

「1票差ですよね? 真のNo.1だとは今でも全然、思っていないです。1票差だったのを、その差をどんどん広げられるようなパフォーマンスができたら、本当に胸を張って自分がNo.1だと言えてくるんじゃないかと思います」

 当時はそんなふうに述べていた井上も、今では“世界一のボクサー”と胸を張るべきではないか。今回、井上の1位浮上に票を投じなかったパネリストたちも、世界最高級の実力者であることは認めている。5月18日のウシク対タイソン・フューリー(英)戦、8月3日にクロフォードが予定する4階級制覇挑戦の結果次第でまた順位変化の可能性は残るが、そこでまた2位以下に落ちたとして、井上がやり遂げてきたことの価値が変わるわけではない。

 “日本のモンスター”は真の意味で“世界最高のモンスター”に昇華した。欧米では評価が低いとされる軽量級の選手でありながら、井上は31歳にして世界中の多くのファン、関係者から熱いリスペクトを集めるボクサーとしての地位を確立したのである。

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★PFPランキングの論点
「体重が同一と仮定したら誰が一番強いかを決めるランキング」ではなく「全階級を通じて誰が最も優秀なボクサーであるかを経歴と表層上の戦力評価で定めるランキング」。いわばレジュメの比べ合いであり、ハイレベルの比較では対戦相手の質が大きく関わってくる。派手なKO勝ちを収めても、格下を蹴散らしての勝利では大抵の場合、大きな評価は得られない。リングマガジンの他にもESPN.comのそれが同じく注目を集めることが多いが(最新のランキングで井上は2位)、同誌選定のランキングは“最も権威がある”と見られている。

★リング誌の最新PFPランク(現地9日更新)
1位 井上尚弥(日本)
2位 テレンス・クロフォード(米国)
3位 オレクサンデル・ウシク(ウクライナ)
4位 サウル・アルバレス(メキシコ)
5位 アルツール・ベテルビエフ(ロシア)
6位 ドミトリー・ビボル(ロシア)
7位 エロール・スペンスJr.(米国)
8位 ジャーボンテイ・デービス(米国)
9位 ジェシー・ロドリゲス(米国)
10位 中谷潤人(日本)

文=杉浦大介

photograph by Takuya Sugiyama