NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルである牧野富太郎。「日本植物学の父」と呼ばれる偉大な学者だが、富太郎は金銭的に非常に苦しい生活を送っていた。

しかし、関東大震災を機に、妻・壽衛は自分で稼ぐことを決意し、やがてそれは、二人の終(つい)の住処(すみか)に結実することとなる。しかし、壽衛の壽衛の体は病に蝕まれていた――。 作家の鷹橋忍氏が、牧野富太郎と壽衛の永別について紹介する。

※本稿は、鷹橋忍著『牧野富太郎・植物を友として生きる』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。


関東大震災...61歳・大正12年(1923)

富太郎は震災が起こったとき、渋谷の荒木山(現在の東京都渋谷区)の自宅で、標本を見ていた。幸い、震災において、牧野家に大きな被害はなく、瓦が落ちた程度であったという。自宅にあった標本も無事であった。

しかし、印刷所が全焼してしまったため、中村の援助で発刊にこぎつけた『植物研究雑誌』第三巻第一号も焼けてしまった。残ったのは、富太郎が持っていた見本刷りの七部だけである。

火災による惨状を目の当りにした壽衛は、夫の貴重な標本や書籍が灰と化すことがないように、火事の危険性の少ない郊外に家をもたなければならないと考えるようになった。

家を持つには資金が必要だ。だが、富太郎にそれを求めるのは不可能である。壽衛は、自分で稼ぐことに決めた。彼女が選んだのは、待合兼料理屋の経営であった。


念願の新居...64歳・大正15年(1926)

壽衛は渋谷の荒木山に一軒の家を借り、待合兼料理屋をはじめた。待合は芸妓を呼んでの宴席や、密談の場として、政治家や豪商などが利用した。明治維新後に流行している。現在でいえば、高級料亭が一番近いだろう。

壽衛は待合の屋号に、実家の別姓をとって「いまむら」と付けた。東京帝国大学理科大学講師である夫に悪い評判が立たぬように、別居という形を取った。

僅か3円の資金ではじめた店であったが、壽衛には経営の才能があったようだ。富太郎いわく、「土地で二流ぐらい」、店は繁盛した。

だが、大学からは「大学の職員の家族が待合をやるとはけしからん」と非難の声が上がり、やがて、店の経営も傾きはじめた。聡い壽衛は「いまむら」を閉め、店とその権利を売って、まとまった金を得たという。

その金で郊外に家を買おうと、壽衛は土地を探しはじめた。

壽衛は、富太郎の書生をしていた東京府北豊島郡大泉村役場の書記・芹沢薫一郎と、彼の上司で植物愛好家の渡辺徳右衛門に、相談をもちかけた。

すると、芹沢の夫人の実家である加藤氏の厚意により、所有する府下北豊島郡大泉町上土支田(現在の東京都練馬区東大泉)の雑木林を借りられることとなった。大正14年(1925)の夏に現地を見に行った富太郎は、そこを一目で気に入った。

壽衛は、この700坪もある雑木林に一軒の家を建て、大正15年、牧野家は新居に移り住んだ。富太郎は64歳、壽衛は53歳になっていた。

この大泉の家は富太郎の終の住処となり、「我が植物園」と称して、94歳9ヶ月で没するまでの長い時間を過ごすことになる。だが、壽衛がこの家で過ごした時間は短かった。

なぜなら、間もなく、壽衛の体は病に蝕まれることになるからだ――いや、転居したときには、もうすでに蝕まれていたのかもしれない。

一方、壽衛の献身は、報われつつあった。翌昭和2年(1927)4月、富太郎が理学博士の学位を授与されたのだ。「牧野博士」の誕生である。