あのまちでしか出会えない、あの逸品――。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

第2回は、奈良県奈良市の「奈良墨」。実は日本の書で使われている固形の墨の9割は、この奈良でつくられたものなのです!

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。


国家の黎明期から、政治と文化を支え続けてきた「墨」

文字を書くために用いられる墨は、紀元前1500年頃、殷(いん)時代の中国で甲骨文字の発明とともに生まれたという。日本には弥生時代末期の3世紀前半、卑弥呼の時代に文字の伝来と同時に筆と墨がもたらされた。

飛鳥時代、聖徳太子が政治を導いたとされるころには、高句麗の僧が墨の製法を伝えたことで国内での製造が始まり、仏典など書物作成での需要が高まった奈良時代には、墨の製造は国家事業の一貫に組み込まれることとなる。以来、奈良の墨はこの国の歴史を記し続けるとともに、それ自身の発展をとげていく。


奈良の都の民の姿を、墨蹟にまざまざと伝える

天平時代以来、数々の宝物を守り伝えてきた東大寺正倉院。その収蔵品のなかに場違いなものが混じっている。それは浄衣と呼ばれる当時の仕事着で、きなり生地の袖や身頃が黒々と墨で汚れている。

奈良時代の東大寺では、国家事業として仏典の書写が推進されたが、その任にあたった写経生が着用したものという。今も生々しいその衣服が、保管されてきた理由は伝わっていない。ただ、写経生のなかには出世した人物もあったといい、功ある者がまとったものなのだろう。

一万数千点にものぼる正倉院文書に、写経生が記した興味深い一点がある。職場である写経所での待遇改善を求めて項目を列挙した下書きで、そこには「机の前に常に座っているので、胸が痛み、脚がしびれる。薬として三日に一度の酒の提供を請う」という一項もあり、先の衣服とともに厳しい作業であったことがしのばれる。この書は皆で相談しながらまとめたのであろう。文言に墨を重ねて推敲が加えられている。

写経生たちが日々の仕事で使用し、その身を染め、また、願いを託したもの。それが墨であった。国の歴史を記すだけでなく、民の姿や思いをも、色あせることなく伝えてきたのである。その当時の墨は、図書寮(ずしょりょう)という律令制機関で製造された。古都奈良での墨の製造の端緒である。

奈良時代の墨も、現在のものと基本的な成り立ちは同じである。煤(すす)と膠(にかわ)を主な素材とし、少量の香料を加えて練り上げ、乾燥させて製造する。炭素の粉末である煤は、通常の環境においては安定した物質で、1300年も前の書物の墨色が今も変質していないことがそれを証明している。

ただし、煤は水にまったく溶けることがなく、そのままでは紙に定着させるのは難しい。動物の皮や骨などを煮て抽出した膠と練り合わせることで、煤の粒子を膠の被膜が包み込んで水に溶かすことができ、筆でもって滑らかに紙に定着させることが可能になる。香料を加えるのは、膠の臭いを抑えるためで、使用時に気持ちを鎮める働きもある。

このように簡素な成分でありながら、文字を書き残すうえで墨は非常に優れ、よって現在に至るまで大きく変わることがなかったのである。しかし、時代ごとの需要とともに進化してきた部分もある。それをリードしてきたのが、奈良の墨であった。