来年1月から、大河ドラマ「光る君へ」が放送される。主人公で、『源氏物語』の作者・紫式部は、都人の印象が強いが、生涯で一度だけ都を離れ、越前で暮らしたことがある。彼女はそこで何を見聞きし、何を得たのか。それをひもとくと、『源氏物語』を知らずとも知っておきたい、平安時代を生きた女性像の一端も見えてくる。

【福嶋昭治】
園田学園女子大学名誉教授。昭和23年(1948)生まれ。 大阪大学大学院文学研究科修士課程修了。専門は 『源氏物語』『枕草子』を中心とした平安時代の文学。 著書に『[源氏物語]カルチャー講座』 『源氏物語 紫式部と越前たけふ』などがある。


都を離れて越前に赴いた理由

いまも日本人に愛されている『源氏物語』。作者の紫式部は、一条天皇の中宮・彰子に仕えた平安時代の女性です。その生涯を平安京で過ごした式部ですが、ただ一度だけ都を離れ、暮らした場所があります。それが、越前の国府が置かれていた武生(たけふ、福井県越前市)です。

長徳2年(996)に書かれた「大間書(おおまがき)」という資料によると、式部の父・藤原為時は淡路国の受領(地方官)に選ばれています。当時、日本は66国2島を数え、国々は、大・上・中・下の4ランクに分けられていました。このランクは人口や交通の重要性などで決められていたようで、淡路は下国にあたります。

為時は無官だったので、待ちに待った任命でしたが、赴任先が淡路ということでかなり落胆したようです。そこで漢文の才に恵まれていた為時は、一条天皇や時の権力者・藤原道長に、自分の気持ちを漢詩にして送りました。

「苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼(くがくのかんやはこうるいえりをうるおし じもくのごちょうはそうてんまなこにあり)」(『今昔物語集』より)

苦しい学問を続けていたのに、結果の情けなさに呆然として空を眺めるばかりだ、という内容です。この詩作の出来栄えに天皇も道長も心を打たれ、人事変更の末、為時が越前の受領となったのです。越前は13あった大国の1つですから、かなりの出世になります。

為時の漢詩は素晴らしいものですが、人事が覆った理由はそれだけではないでしょう。当時の越前には、宋 (中国)から外国人が来ていました。為時の漢文能力ならば、会話はできなくても筆談はでき、そうした交渉できる能力も買われたのではないかと推察できます。

紫式部は、父親の越前赴任に同行することになりました。実はこの頃、式部に結婚の話が出ています。相手は藤原宣孝というかなり歳の離れた貴族で、おまけに父親の上司にあたり、無下には断れない相手。そこで、返事をするための冷却期間を置きたいと考え、京を離れたのかもしれません。

当時、家族の赴任先に女性が同行するというのは、割合あったようで、紀貫之も妻や娘を伴って土佐に向かっていますし、のちに宮中で紫式部と親交を深める女流歌人の赤染衛門も、夫と一緒に尾張まで赴いています。こうして紫式部にとって、生涯ただ一度の都から離れた生活が始まったのです。

 

越前への道

都から越前へ向かうには、有名な逢坂関を越えます。この逢坂関は、さまざまな歌人が歌に詠んでおり、特に『小倉百人一首』に掲載された蝉丸作の「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」が有名です。

紫式部も感慨深く思ったことは想像に難くありません。そこから大津へ出て、舟で琵琶湖を渡ります。琵琶湖最北の湊、塩津に上陸後は、陸路で国府の置かれている越前へ向かいます。

近江(滋賀県)塩津と越前敦賀を結ぶ道を「深坂越え」といい、急坂の山道を進みます。式部は輿に担がれて越えたようですが、『紫式部集』には、

「塩津山といふ道のいとしげきを。賤の男のあやしきさまどもして、『なほからき道なりや』といふを聞きて 知りぬらむ ゆききにならす塩津山 よにふる道はからきものぞと」

とあります。

塩津山(深坂)という道がとても険しいのを、身分の低い男たちが粗末な恰好で、「やはり難儀な道だなあ」というのを聞いて、あなた方もわかったでしょう。行き来に慣れている塩津山、その塩は辛いもの。世の中を渡っていくのは、私も含めて辛いものなのです、という意味です。

難所の深坂を抜けると、ようやく越前の敦賀に到着します。為時と式部一行は、越前一宮である氣比神宮に参詣したことでしょう。

ここから国府のある武生へは、木ノ芽峠か山中峠を越えなければなりません。どちらを通ったのか明らかではありませんが、いずれにしても峠を越えれば国府は目前です。