あのまちでしか出会えない、あの逸品――。そこには、知られざる物語があるはず!

「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。

第4回は、大阪府大阪市の「昆布」。関西の出汁(だし)文化の基本にして、塩昆布やおぼろ昆布など大阪の名産品の素材でもある。昆布にまつわる歴史をたどると、江戸時代の経済が垣間見えるだけでなく、現代の食文化の危機的状況も浮かび上がってくる。

【兼田由紀夫(フリー編集者・ライター)】
昭和31年(1956)、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年(1997)より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』(ともにウェッジ刊)。

【(編者)歴史街道推進協議会】
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。


北海道から大阪へ──北前船で交易された昆布

文化庁が認定する「日本遺産」の一つに、「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜」がある。

北海道を起点に日本海沿岸をたどって東北、北陸、山陰と南下、さらには瀬戸内海へと入って東に向かう西廻り航路が江戸時代に成立。その航路で交易活動を行ったのが、北前船である。

北前船の寄港地・船主集落として日本遺産に認定される市町は48に上り、その終着点こそ商都大阪であった。そして、北前船によって北海道から大阪へと運ばれた産品の代表が昆布であり、ここから大阪、ひいては関西の食文化が花開くのである。


動く商社、北前船の一年とともに

北海道と三陸の海岸で産する昆布は、縄文人も口にした古来の食品である。すでに奈良時代以前より毎年、朝廷に献上されていたという記録も残り、当時は「ひろめ」や「えびすめ」と呼ばれていた。

「め」と総称された海藻類は乾燥させることで保存と輸送の便が利き、荷札に使われた木簡にもよく記録され、昆布も古代の人々から重宝されてきたのであろう。

戦国時代、昆布は「よろこぶ」に掛けて陣中食でも格別に扱われた。意外な利用法として伝わるのは、築城において巨石を運ぶ際、水で戻した昆布を下に敷き、そのぬめりを潤滑剤に用いたという。豊臣秀吉が大坂城を築いたときにも大量の昆布が使用され、使用後に食用に転じられたことが、大阪の昆布文化の始まりとする奇説も存在する。

しかし、実際に大阪が昆布の流通拠点となり、その食文化の中心地となるのは、やはり北前船の就航以降である。

北前船の大きな特徴は、ただ荷を請け負って運ぶ廻船(かいせん)業者ではなく、船主自身が寄港する地で物品を売買して商いを行う、いわば動く商社であったことである。古くから日本海沿岸の物流に関わった北陸の船主が知られるが、兵庫や泉州(現在の大阪府南西部)などの船主も活躍し、大阪と北海道との交易に貢献した。

近世の北前船は、1年に一航海を基本とした。春を迎えた3月下旬に大阪を出帆。蝦夷(えぞ)地と呼ばれた当時の北海道向けには、米や酒、塩、木綿の衣類などが積み込まれた。

瀬戸内海を経て日本海に出ると対馬海流に乗って北上し、5月中には蝦夷地に到着。ここで大阪向け産品として、昆布などの海産乾物のほか、肥料である干鰯(ほしか)や鰊粕(にしんかす)などが積載され、7月下旬から8月に蝦夷地を出立した。

寄港地で売買をしながら南下した北前船は、11月に入って大阪に帰還。仕事を終えた北陸などの船乗りは、陸路で故郷へ帰って正月を迎えたという。そして春先に、新たな就航に備えて彼らは大阪に戻り、船出前には航海の守護神をまつる住吉大社に無事を祈ったと伝わる。

北前船に使われた船は、一つの大きな帆を掲げる和船で弁才船(べざいせん)という。堅牢にして帆走性能に優れ、5百石から1千石積みのものが主であったが(1石は米で約150㎏)、なかには2千4百石を積載できた巨船もあった。

千石船を建造するのに1千両、現在の価格で6千万円から1億円を要したが、1回の航海で同等の利益を叩き出したといい、一攫千金を夢見て船主をめざす者は少なくなかった。

北前船のもたらす利益は、船主に留まらなかった。蝦夷地に届けられた塩は、保存が効く塩鮭など魚介の塩漬けの生産につながり、江戸をはじめとした全国で人気を博した。

また、鰊などから作られた肥料は、綿花栽培などにおいて関西一円の農家の需要が高く、北前船の収益の柱となっただけでなく、それらの農産物から作られた製品が新たな経済のサイクルを生み出した。

そして、昆布である。大阪の問屋に納品された昆布は、蔵で寝かされることによって、旨味を増すことが判明する。大阪の多湿な気候が熟成に適していたといわれる。この熟成昆布が、大阪の味として広まっていく。

さらには、和歌山などで生産される醤油との出遭いから名産の塩昆布が生まれ、酢に浸した昆布を削ってつくるおぼろ昆布やとろろ昆布は、堺の刃物がその生産を支えたという。


昆布に見る食文化の危機と未来のビジョン

現在、ほとんどを北海道で産し、その沿岸の全域で穫れる昆布だが、産地によって味わいや食感が違い、利用も異なる。

「京料理では道北沿岸を産地とする利尻昆布が重用され、大阪では道南産の真昆布が基本です」と教えてくれたのは、大阪の老舗昆布店「こんぶ土居」の四代目で代表取締役の土居純一さん。

利尻昆布は出汁が澄んで香り高く、素材の色や味を生かせ、真昆布は上品な甘みに特長がある。ほかにも、濃厚な出汁が取れる羅臼(らうす)昆布、煮ると柔らかく、そのものを食べるのに適した日高昆布などが知られる。

土居さんはかねてより、伝統的な自然食品としての昆布と昆布製品の製造にこだわり、店舗のサイトなどを通して情報発信をしてきた方でもある。昨年夏には、昆布の知識を広く知らせるための場として「大阪昆布ミュージアム」を店舗の近くに開設。そこにある思いを聞いた。

「大阪は昔から昆布の食文化の中心地でしたが、その文化は近年、世界的に高く評価されるようになっています。それは美味の追求や、健康を育む栄養の面からです。また、昆布をはじめとした海藻が環境に果たす役割が認知され、それを活用するエコロジー的側面においても注目されています」。

しかし、その一方にある日本の現状を土居さんは憂える。

「昆布の生産量、消費量ということでは30数年前から比べると約4割の量まで減少しています。そのなかで潰れてしまった大阪の昆布屋も少なくありません。昆布ミュージアムの創設は、大阪の昆布文化がなくなるのではないかという私なりの危機感の表れです」。

土居さんは、20数年前から真昆布の代表的産地である函館市川汲(かっくみ)を毎年、訪ねて昆布漁にも参加してきたという。昆布の収穫から加工、販売、消費までを見通すその知見が昆布ミュージアムに生かされている。

「この先のビジョンが描けるかどうかが大切」とも土居さんはいう。日本伝統の自然食を見直し、日々の糧に生かす。そうした豊かな食文化への可能性の端緒を、昆布という食材に見たように思う。