昨年12月30日、「演歌の女王」八代亜紀さんが亡くなられました。2022年の取材では、歌手生活50年を迎えた八代亜紀さんに、人生で大切にしてきた考え方をお聞きしました。本稿では当時の八代さんの言葉をご紹介します。(取材・文:若林邦秀)

※本稿は、『PHP』2022年5月号より内容を抜粋・編集したものです。


「ありがとう」をたくさん伝える

「ありがとう」

本当に、いい言葉ですよね。私、子どものころから大好きなんです。昨年(2021年)、歌手デビュー50周年を迎えましたが、この言葉に元気をもらって、ここまでやってきました。

新型コロナウイルスの制限が少し緩和されて、先日やっとコンサートをできるようになりました。感染対策で座席数を半分に減らしてお客様に来ていただきましたが、うれしくて、何度も「ありがとう」と伝えました。

すると、会場のみなさんが涙を流して喜んでくださるんです。ずっとコンサートを心待ちにしてくださっていたんだな......とジーンときて、私も涙ぐんでしまいました。

私にとっては「会場に来てくれて、ありがとう」、会場のみなさんにとっては「八代亜紀が来てくれて、ありがとう」。お互いが「ありがとう」という一つの思いでつながって、「ああ、幸せだな」と感じたひとときでした。

「ありがとう」と聞くと、言ったほうも言われたほうも元気になるし、「よし、またがんばろう」という気持ちになります。だから私は、たくさん「ありがとう」と言葉にするようにしているんです。


両親の姿が、私の原点

私のデビュー曲は、まったく売れなかったんです。2年間、キャンペーンで全国をまわる日々が続きました。トランクいっぱいにレコードをつめて、知らない街のキャバレーで歌わせてもらって、そのあと客席をまわって、一枚、一枚、手売りするんです。

翌朝になったら、また重いトランクを引きずりながら、次の場所へ移動です。あのころの私の手はマメだらけでした。

そんな生活は、『なみだ恋』が大ヒットしたことでガラリと変わりました。そのとき、父にこう言われたんです。

「100万枚のヒットなんて、親戚一同がどれだけ買っても無理だよ。見ず知らずの方、一人ひとりが買ってくださったんだ。感謝するんだよ。決して天狗になってはいけないよ」

父のこのときの言葉が、今も忘れられません。本当に、その通りですよね。それ以降、ますます「ありがとう」と言葉にするようになりました。

そうやって精いっぱい歌い続けて、はじめは5年もてばいいかなと思っていました。それが、10年になり、20年になり......、とうとう50年になったんですね。

もちろん、これまでの人生、いいことばかりではありませんでした。意地悪されたり、だまされたりしたこともありました。

たとえば、全国キャンペーン中に、マネージャーを名乗る人が、手売りしたレコードの売上も私のお給料も全部持って消えたことがありました。もちろん、とても悲しかった。でも一方で、こうも思っていたんです。

「人にだまされると、こんなに悲しいんだ。だから私は、絶対にそんなことはしない」そんなふうに考えていると、また別のいいことが起こるんです。

同じキャンペーンのときに、こんなことがありました。次の街へ移動するため、私はガラガラの始発電車に乗って、トランクを前に抱かかえ、両脇に大きなバッグを2つ置いて座りました。

疲れていたんでしょうね。ガタンゴトンとゆられるうちに、泥のように眠ってしまったんです。ハッと目が覚めると朝のラッシュの時間帯で、電車は超満員。そんななか、私が何人分もの席を占領しているわけです。申し訳なくて、恥はずかしくて......。

でも、だれからも「どけ!」などと、きつい言葉を浴びせられることはありませんでした。それから数年後、『なみだ恋』がヒットしてから、こんなお手紙をいただきました。

「数年前、トランクを抱えて電車で寝ていた女の子がいました。疲れているんだから寝かせておいてあげよう、とみんなで言いあったんです。あれは八代さんだったのでは?」心がぽっとあたたかくなりました。

どんなときにも、いいことが一つくらいはあるはず。十のうち九ついやなことがあっても、一ついいことがあれば、そちらに「ありがとう」と言いたい。そんなふうに私は考えてきました。

その原点は、両親の存在です。小学生のころ、ある日、家に帰ると知らないおじさんがいたんです。両親は、その人に毎日ご飯とお風呂を用意していました。ひと月ほどしたら、その人はいなくなりました。父に「どうしていなくなったの」と聞くと、「住みやすい場所に行ったんだよ」と。

あとで、ホームレスの方だったと知りました。寒い日に橋の下で震えていたのを父が見かけて、放っておけなかったそうです。

母は母で、肉じゃがを多めにつくって、「あまったから、どうぞ」とご近所さんに持っていって、なんて私に言っていました。そういう両親の姿を見て育ったので、物事のいい面に目を向けよう、感謝しよう、と思うようになったんですね。


絵が歌を支え、歌が絵を支える

もう一つの私の元気の源は、絵です。父に「上手だね」とほめられるのがうれしくて、絵を描くのが大好きになりました。

『なみだ恋』のヒットのあとは、スケジュールが真っ黒になって、絵を描く時間の確保ができませんでした。仕方がないから、夜中に描き始めるんです。絵の世界に没頭して、気がついたら、いつも朝になっていました。

私・八代亜紀にとって、歌は命で、その命を支えるのが絵なんです。この二つの世界で私は成り立っている。だから、何と言われようと、絵をやめることはできませんでした。そうしたら、マネージャーが理解してくれて、月に何日かはアトリエにこもって絵を描ける日をつくってくれるようになりました。

私が描くのは写実画です。絵で質感をリアルに表現するのが好きで、「子どもにもわかる絵を描きたい」と思っています。

あるとき、私の個展の会場で小さなお子さんがぐずって泣いていました。スタッフが「どうしたんですか?」と聞くと、その子のお母さんが言いました。

「この絵の猫ちゃんをなでたいと言って、きかないんですよ」

スタッフが気をきかせて、そのときはガラス越しに絵をさわらせてあげたそうです。絵の額縁にはガラスがはめこまれているので、あとでふけば問題ありません。毛の一本、一本まで、本物の猫に見えるように描いたので、この話を聞いたときは「やった!」とガッツポーズしました。

みなさんも、自分の「好き」の世界を二つ持ってみてはいかがでしょうか。二つの違う世界がお互いに影響しあい、支えあって、毎日がより楽しいものになっていきますよ。


悲しさを抱える人のために歌いたい

デビュー以来、つらさや悲しさを抱える人の代弁者のつもりで歌ってきました。

「世の中には自分と同じように悲しさを抱える人がいるんだ」

そんなふうに、聞いてくださった人に言葉が届いて、「これは私の歌だ」と思ってもらえることが一番うれしいんです。

私は、歌で自分自身を表現したいと思ったことが一度もないんです。これからも、悲しさを抱えるだれかの代弁者になって、歌の心を伝える存在でいたいですね。

コロナ禍が落ち着けば、トラックで全国をまわって、そこをステージに歌いたいと思います。車なら、どこへでも行けますから。そこで、みなさんに直接「ありがとう」をお伝えしたいというのが私の今の夢です。

【八代亜紀(やしろ・あき)】
歌手。熊本県八代市出身。1971年デビュー。数々のヒット曲があり、’80年、「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞・大賞を受賞する。2010年には、歌唱技術が認められ文化庁長官表彰を受賞。絵画では、世界最古の美術展、フランスの「ル・サロン」で5年連続入選を果たし永久会員となる。2023年末に逝去。