夏目漱石の「三四郎」は、大学入学のため熊本から上京する汽車の場面から始まる。主人公は隣り合わせたヒゲの紳士から「食べませんか」とすすめられ、桃を一つ、また一つとほおばる◆桃は古来、日本人に親しまれてきたが、それは見て楽しむ花桃のこと。品種改良で実った甘い果実を桃と呼ぶようになったのは明治半ばという。「三四郎」が書かれたのは明治41(1908)年。日露戦争の戦勝に沸く世相の中で、新しい時代を象徴する味だった◆三四郎のように、田舎を出て身を立てようとする若者が出てきたころ、「青春」という言葉も生まれた。明治とは現代の基点である。そういえば地球温暖化も、20世紀を迎えた明治の終わりから、大気中の二酸化炭素濃度が急カーブで上昇し始める◆先月末、男性の国内最高齢だった千葉県の112歳が亡くなった、と小さな記事にあった。明治生まれの最後の男性である。SNSで瞬時に情報が拡散し、AI(人工知能)がもてはやされる時代はどんな心地だったか◆男性が産声を上げた明治44(1911)年の歴史をひもとけば、漱石が文学博士の学位を辞退、とある。「ただの夏目なにがしで暮らしたい…」。そんな断りの手紙を書いたという。「ただの人」が生きた112年、この国はどこへ向かってきただろう。明治は遠くなりにけり。(桑)