2015年の世界選手権で日本男子初のメダル(銅)を獲得。茶髪や派手なネックレスといった見た目も含めて大きな話題に
2015年の世界選手権で日本男子初のメダル(銅)を獲得。茶髪や派手なネックレスといった見た目も含めて大きな話題に

バドミントン男子シングルスの桃田賢斗(29歳、NTT東日本)が、激動の10年に終止符を打つ。4月18日、桃田は都内で記者会見に臨み、同27日開幕の男子国別対抗戦トマス杯を最後に、日本代表を引退することを発表した。

競技に興味がない人でも「バドミントン=桃田」のイメージは強いだろう。桃田は、日本男子選手の〝レコードブレイカー〟として台頭した。

富岡高(福島)3年時の2012年に、世界ジュニア選手権で日本男子として初めて優勝。シニアでもすぐに活躍し、15年に世界選手権で日本男子初の銅メダルを獲得した。翌年、世界ランク2位に到達。16年リオデジャネイロ五輪のメダル候補となった。

しかし、多くのカメラに囲まれた桃田の姿が報じられたのは、五輪ではなく、スキャンダルだった。夏の五輪を目前に控えた16年4月、茶髪を黒く染め直し、黒いスーツ姿となった桃田は、先輩である田児賢一と共に違法賭博店利用の謝罪会見に臨んだ。

日本バドミントン協会から無期限の出場停止処分を科され、香川県の実家に戻ったが、報道陣に張りつかれた。注目の五輪メダル候補から一転、大失態を犯した選手として批判の目にさらされた。

違法賭博店の利用が発覚し、謝罪会見に臨んだ桃田(右)。無期限の出場停止処分を科され、2016年リオ五輪出場の道も断たれた
違法賭博店の利用が発覚し、謝罪会見に臨んだ桃田(右)。無期限の出場停止処分を科され、2016年リオ五輪出場の道も断たれた

止まった時計の針が動き出したのは、約1年後。出直しとなった17年は、全日本総合選手権の準々決勝で敗退。ブランクの影響とプレッシャーに苦しむ姿があった。

それでも18年の日本A代表に選出されると、一気に飛躍した。8月の世界選手権で日本男子初の優勝。9月には、東京で行なわれたダイハツ・ヨネックスジャパンオープンでも初優勝した。

日本に世界の強豪が集う唯一の機会で、日本中のファンが集まる同大会。その18年大会を、桃田は代表引退会見の中で「一番の思い出」に挙げた。

「正直、『応援されないのではないか』とネガティブな気持ちもあったけど、コートに立つと、たくさんの人に応援してもらえて、いつも以上の力を出すことができた。日本の国際大会で結果を出すことが僕なりの恩返しだと思っていたので、それを形にできたのがすごくうれしかった」

同月には、日本男子初の世界ランク1位に到達。スキャンダルを乗り越え、世間に受け入れられ始めた桃田は、3年以上も世界1位をキープする。

19年に世界選手権を連覇。急遽、決勝戦が民放で生中継されるほど注目度が高まっていたのは、20年東京五輪の金メダル候補として再び注目と期待を集めるようになっていたからだ。

18年以降は世界のバドミントンの中心となった。年間勝率は90%以上。19年は主要国際大会で11回優勝し、ギネス世界記録に認定された。東京五輪における日本の金メダル候補の中で「最も可能性が高い」ともいわれた。

しかし、栄光の道は突然にふさがれることになる。20年1月、マレーシアで国際大会を優勝した桃田は、帰国のために空港へ向かう途中で交通事故に遭った。運転手は死亡。桃田は全身を打撲。顔にも裂傷を負った。その事故の影響は大きかった。帰国後、物が二重に見える症状から眼窩底骨折が発覚。手術を受けた。

直後、世界はコロナ禍に陥り、東京五輪は1年延期。多くの国際大会が中止になった。桃田が国際大会に復帰したのは、21年3月。準々決勝で敗れたが、再び常勝ロードが始まると思われた。

しかし、夏の東京五輪は、まさかの予選ラウンド敗退。相手の強打をまったく返せず、自慢のレシーブは影を潜めた。その後も初戦敗退を繰り返し、桃田は不調に陥った。

24年パリ五輪の出場権争いでも〝蚊帳の外〟だったが、多くの人は状況を知らず「あれ、バドミントンといえば、桃田でしょ?」という声も多く聞かれた。しかし桃田は不調から抜け出せず、苦しみの中で戦い続けた。

後に「出ても勝てないというか、出たくない気持ちもあった」と話すほどの敗戦の連続。無敵時代との大きなギャップは無視できなかった。誰もが事故の影響を考えたが、言い訳を嫌い「今の自分」を受け入れて挑戦を続けた。

世界中のファンが復活を願う中、桃田は攻撃的なプレースタイルへの変更など試行錯誤。そして全日本総合選手権は22年、23年と連覇。23年11月には、2年ぶりに国際大会で優勝を飾った。しかし、腰や背中の痛みが出るなど欠場も多く、パリ五輪の出場権獲得レースは早い段階から苦境に立たされた。

厳しい現実を突きつけられながら、「まだやれる」と自分を奮い立たせていた時期、桃田は「僕ひとりの考えで代表引退は簡単だけど、感謝はコートでしか表現できない。そういう(支えてくれた)人たちの前で簡単に諦めたくない気持ちもあった」と葛藤を抱えながら進んでいた。大好きなバドミントンを、事故に奪われる形にはしたくない思いもあったという。

しかし、24年2月のアジア団体選手権でも好プレーは示せず、過密化する国際シーンでの競争力は戻せないと判断した。

桃田は会見で、代表引退の理由をこう話した。

「気持ちと体のギャップが続いていく中、また世界一を目指そうというところまでいけない、と判断しました」

代表引退後については、競技普及活動への参加に意欲を示した。今までとは異なる形でも、自分を育て、受け入れ直し、支えてくれたバドミントン界への恩返しを続ける。

期待値の上昇からスキャンダルでどん底へ。よみがえって世界の頂点に立つも、五輪直前で交通事故。不調の中で見せた不屈の挑戦......。桃田が見せた姿とその物語は、強烈に印象的だ。

五輪で活躍することはできなかったが、日本におけるバドミントンの知名度を高め、競技ファンに多くの夢を与えた比類なき存在。栄光と挫折をジェットコースターのように駆け抜けた10年だった。

取材・文/平野貴也 写真/アフロ