2024年3月31日に63歳の若さで亡くなったロブ・カーマン。帝王の凄味はリングスでの角田信朗戦でも発揮された
2024年3月31日に63歳の若さで亡くなったロブ・カーマン。帝王の凄味はリングスでの角田信朗戦でも発揮された

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第26回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■UWFとのクロスオーバー

キックボクサーはキックボクシングをして闘う。そんな当たり前なことを日本格闘技界は許さなかった。1980年代後半から90年代にかけての話であるが、いったいなぜそんなことになったのか。それは格闘技系プロレス団体 UWFの出現によって、UWFと他の格闘技とのクロスオーバーが頻繁に起こるようになったからにほかならない。

そのパイオニアは前回記した日系米国人キックボクサー、ドン・中矢・ニールセンだったと言っていい。ニールセンは86年10月9日、新日本プロレスのリングで前田日明と異種格闘技戦を行なった。続いて88年8月13日、オランダの空手家ジェラルド・ゴルドーがUWFの有明コロシアム大会で前田日明と異種格闘技戦を行ない、その後もプロレスと格闘技を行き来しながら知名度を高めていった。

格闘技とプロレスの垣根などないに等しい時代だったのだ。そんな背景もあり、カーマン絡みの異種格闘技戦実現の機運は日増しに高まっていく。

「もし前田日明とロブ・カーマンが闘ったら......」

ルールなど二の次。プロレスファンは真剣にUWFのエースとキックボクシングの帝王の直接対決を空想し、夢とロマンを膨らませていった。

K-1旗揚げ前年の92年8月には、前田日明が率いるリングスで佐竹雅昭との対戦も実現している
K-1旗揚げ前年の92年8月には、前田日明が率いるリングスで佐竹雅昭との対戦も実現している

一方、キック側にもプロレスと絡むメリットはあった。リアルとエンターテインメントという違いはあるにせよ、UWFと絡めばその人気に便乗することができると考えたのだ。80年代半ばから筆者は後楽園ホールでキックを生観戦するようになっていたが、会場の雰囲気はまだ70年代の〝怖い世界〟というネガティブなイメージを引きずっており、その筋絡みのケンカが起こることも珍しくなかった。

89年10月21日、全日本キックの後楽園ホール大会でロブ・カーマンとサムソン〝サイクロン〟ネグロの異種格闘技戦が実現したのは時代の流れだったとしかいいようがない。全日本キック、いや日本キックボクシング界にとっても、これが初めての異種格闘技戦だった。約1ヵ月後の11月29日には後楽園ホールの隣の東京ドームでUWFがビッグマッチ『U-COSMOS』を行なう流れに連動させたいという思惑もあった。

もっとも、カーマンにとってはこれが初めての異種格闘技戦への挑戦というわけではなく、その1年半前には東京で幻の異種格闘技戦が組まれていた。88年4月2日、両国国技館で行なわれた梶原一騎追悼記念興行『88格闘技の祭典』におけるタイ在住のイラン人ファイター、イサマル・チャンガニーとの一戦がそれだ。

異種格闘技戦と銘打っていたとはいえ、チャンガニーはキックボクサーだったので、実施されていれば普通のキックルールで行なわれていたであろう。

この大会の主催は、カーマンが主戦場とする全日本キックのライバル団体であるMA日本キックボクシング連盟だったが、ブッカーをオランダキック界の父・黒崎健時がやっていた関係で、超法規的措置としてカーマンの起用が許されたのかもしれない。しかしながら、この一戦はカーマンが前戦で脚部を負傷したため出場をキャンセル。急遽、藤原喜明が代役としてリングに上がりチャンガニーと引き分けた。

■目を覆いたくなった異種格闘技戦

そこで、カーマンにとって正真正銘初めての異種格闘技戦の対戦相手となったネグロは、かつて日本プロレスや全日本プロレスに頻繁に来日した〝受け身の達人〟サイクロン・ネグロ(覆面レスラーのカリプス・ハリケーンにも変身)とは同名異人。当初発表の写真をみると、新日本プロレスや旧UWFに来日経験のある、ヨーロッパを主戦場としていたカズウェル・マーティンであることがわかる。

当初は世界の力自慢たちを集めた「ストロンゲストマン・コンテスト」の常連だったジェフ・ケープスとの一戦が企画されていたという話もある。ケープスはかつてオランダで〝オランダのサンボ王〟クリス・ドールマンとジャケット着用による組み技・関節技・絞め技のみのフリーファイトで闘ったことがある。

しかし、ケープスの体格はスーパーヘビー級だった。そこで体格は合わせたほうがいいということになり、カーマンと背格好がさして変わらないマーティンに変更になったのではないか。

当時の東京スポーツにはカーマンとマーティンが並んで収まっている調印式らしき写真も掲載されている。しかしながら決戦当日、リングに上がってきたのは同じ黒人レスラーでも、マーティンとは似ても似つかぬ別のレスラーだった。この一戦の試合リポートを筆者は『格闘技通信』No.38に書いているので、一部引用する。

〈カーマンが射程距離に入るのをなんとか防ごうとステップバックしながら、リングをグルグルと回るがガードが甘い。カーマンはいともたやすくネグロの懐に入り、ボディブローを見舞った。ガクッとネグロの動きが止まる>

極め付きはカーマンがハイキックを決めた場面だろう。大げさに一回転して派手な受け身をとるネグロ。リングサイドの記者席で取材ノートに走らせていたペンの動きが止まり、目を覆いたくなった。筆者の目に狂いがなければ、この一戦は紛れもなく仕組まれたファイトだった。そうでなければ、意識がある中で一回転もするわけがない。

その後、カーマンは再び異種格闘技戦をやることも、MMAに進出することもなく現役から退いた。オランダ目白ジムの後輩で現在同ジム代表のアンドレ・マナートが日本の修斗でエンセン井上と一度だけMMAをやったこと(96年)を考えると、それも時代の巡り合わせだったのかもしれない。

それでも、MMAの黎明期といえる時期に、カーマンは一度だけ「準MMA」というべきリアルファイトを行なっている。92年1月25日、リングス千葉大会で行なわれた角田信朗戦だ。試合は1〜3Rが掌底による顔面攻撃ありのリングスルール、4〜5Rをグローブ着用による特別キックルールで行なうというミックスマッチ。いまはなき別冊宝島179『プロレス名勝負読本』(1993年刊)で筆者はこの一戦を取り上げている。

〈必死にカーマンの蹴り足をとりに行く角田。すると、どうだ。次の瞬間、カーマンは冷静にも全体重を乗せた右ヒザを狙いすましたかのように、仰向けになった角田の顔面に落とした。さすがストリートファイトが日常茶飯事であるアムステルダムで生まれ育っただけのことはある。もしかしたら昔、実際のストリートファイトでこんな拷問技を使ったことがあるのかもしれない〉

3ラウンド2分3秒、レフェリーストップでカーマンのTKO勝ち。のちに「あの顔面ヒザ落としは反則なのでは?」という議論も湧き起こったが、全てはあとの祭り。現場で周囲に何も言わせなかったカーマンの凄味に震えるしかなかった。

角田戦は1〜3Rがリングスルール、4〜5Rがキックボクシングルールという試合形式で行なわれた
角田戦は1〜3Rがリングスルール、4〜5Rがキックボクシングルールという試合形式で行なわれた

現役引退後、アメリカに拠点を移したカーマンはUFCでセコンドに就いたり、のちに日本で大成する前の須藤元気にキックを教えたりしていた。もし5歳ほど若かったら、モーリス・スミスのようにMMAに転向していたのではないか。あの顔面ヒザ落としを思い出すたびにそう思う。

(つづく)

文/布施鋼治 写真/長尾 迪