フットボーラー=仕事という観点から、選手の本音を聞き出す企画だ。子どもたちの憧れであるプロフットボーラーは、実は不安定で過酷な職業でもあり、そうした側面から見えてくる現実も伝えたい。今回は【職業:プロフットボーラー】中村憲剛編のパート1だ(パート6まで続く)。

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 プロフットボーラーで成功者と言われるプレーヤーはいわばひと握りで、結果を出せないまま現役を退く選手のほうが多い。そんな不安定で過酷な仕事を、それでもやり続けるのはなぜか。その答を探るべく、中村憲剛さんに取材依頼をした。

 これまで権田修一選手(清水エスパルス)、酒井高徳選手(ヴィッセル神戸)と現役プレーヤーに話を聞いたので、連載3回目は「引退した名手の見解も面白いかな」と考え、憲剛さん(親しみを込めてそう呼ばせてもらう)にオファーしてみたのだ。

 現役時代から“対話のプロ”でもある憲剛さんなら、権田選手、酒井選手とはまた違った見解を示してくれるだろうと、そんな期待を膨らませてインタビュー当日、もはやお決まりとなった質問、「『職業:プロフットボーラー』と聞いて、思うことは?」と訊いてみた。すると、憲剛さんは「職業、プロフットボーラーか。そういう目線で考えたことがなかったですね。でも、面白いテーマではあります」と言って、表情を少し緩める。

 この男の好奇心をくすぐれば、どうなるか。おそらく、ここから自分は“言葉のシャワー”を浴びるはずだ。そうした中で、一言一句、聞き逃すわけにはいかない。話してくれた内容に対し、的確な返しをするためにも。机を挟んでのある意味、戦いである。褌を締め直して、改めて彼に問う。職業、プロフットボーラーとは?
 
「僕の場合、中1の5月にJリーグが開幕しました。それ以前はプロがないし、日本代表はオフト監督の下で少しずつ強くなっていましたが、未だ漠然としていて。でも、プロリーグの発足で、あそこに行きたい、ああいう選手になりたいっていう願望が芽生えました。ただサッカーが好きでボールを蹴っていた状況から、その線上にプロという道標ができたのはものすごく嬉しかったです」

 要するに、当時中学生だった中村少年にとって“プロフットボーラーは憧れの職業”だったということだろう。そんな解釈をしつつ、憲剛さんの話にしばし耳を傾ける。

「僕は中1で大きな挫折をしました。身長も伸びなくて、全然上手くいかなくて、1回サッカーをやめたんです。そんな状況下の5月15日に開幕したJリーグは挫折中の僕にとって大きな光だった。ピッチの上でキラキラ輝いている選手たちを見て、自分もあそこに立ちたいと思わせてくれた。ひと言でいえば、僕はJリーグに救われたんです」

 当時の中村少年はサッカーをやめている背景からも分かるように、プロになれる自信も確信もなかった。ただ、プロ化によって夢を描けるようになった。いつか、僕もあのピッチに立ちたいと。そう思わせてくれたことが、“その後の中村憲剛”を形成するうえで何より重要だった。

「プロはボールを蹴ってお金を稼いでいるわけだから、ピッチで良いプレーを見せなきゃいけないし、お客さんを感動させなきゃいけない。でも、なんかもう、そういう使命感を考えるよりも、ただああなりたいという感情。憧れの対象だったんです。なので、僕の中でのプロフットボーラーの定義は『子どもたちに夢を与える職業』になります」

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 サッカーをやめていた状況でJリーグが開幕し、希望を与えてくれた。そのインパクトがよほど大きかったのだろう。実際、憲剛さんも「タイミングが絶妙でした」と答えている。

 最初の質問にして濃厚な回答である。一瞬たりとも気を抜けないと自分に言い聞かせつつ「サッカーが遊びから仕事に変わった瞬間は?」と問うと、憲剛さんは悩む素振りもなく「2003年シーズンの練習初日です」と断言。川崎フロンターレの一員になって、まさにプロの一歩目を歩み出すタイミングでスイッチが切り替わったという。

「今でも覚えています。あの練習初日は強烈でした」

 どう強烈だったのか。当時の心境も併せて訊くと、憲剛さんは懐かしそうな表情で言葉を並べてくれた。

「(他の選手と)一緒に走ったり、練習したりする中で自分がめちゃくちゃ緊張していることに気づいて。遊びのパス回しですらドキドキしちゃって(苦笑)。(パス回しの)両隣は石塚啓次(元・東京ヴェルディなど)さん、鬼木達さん(元・鹿島アントラーズ/現・川崎監督)で震えていましたからね、緊張で」

 石塚さんは山城高、鬼木さんは市立船橋高出身で、「高校サッカーが大好きだった」憲剛さんにとってはスーパースターだった。そんなふたりに挟まれているのだから、緊張して当然である。それに、憲剛さんにはある「引け目があった」。

「(1部リーグの大学ではなく)2部リーグの中央大学から(川崎に)加入しているので、引け目があった。『なんだ、コイツ』と思われたくないから、余計な力が入っちゃうんです。ちゃんとプレーできる姿を見せなくちゃいけないという変なプレッシャーがあって、全然上手くいかなくて。今思い出すと、笑っちゃいます。そんなのでミスする?って(笑)。僕の引退セレモニーで岡山一成さん(元・川崎など)も当時を回想して言っていましたから、『この子、大丈夫か』って。それくらいダメでした」

 地獄の練習初日、そう表現しても大袈裟ではない。

「プロフットボーラーになった途端、崖っぷち。振り向いたら、すぐ崖みたいな。めちゃくちゃ怖かったです。練習初日が終わった時、やばいって思いましたよ。この感じで続けたら、首を切られるって。確か1年契約だったので、その日を境にプロフットボーラーという職業の怖さが日々のしかかっていきました」
 
 仕事がなくなる恐怖。プロフットボーラーは、そうした不安とも戦わなければならない。定められた教育課程をクリアすれば卒業できた学生時代とは明らかに違う。その現実を突きつけられた22歳の若者(当時の憲剛さん)が苦しむのも当然だ。

「(川崎に)入るまで恐怖は一切ありませんでした。未来が光り輝いていて、中1の時に夢見た舞台に自分がたどり着いて『よし、ここからだ』と。入団内定したのが2002年の10月だったので、そこから1月まで(大学の)クラスメイトからも『おお! Jリーガー! 頑張ってこいよ!』みたいな感じで見られて、ちょっと昂った状態で入団会見もして夢と希望に満ち溢れているところから、1日でドーンと真っ逆さまに落とされるわけです」

 理想と現実のギャップに苦しむ社会人は多いはずだ。就職した企業に馴染めず、早期退社を決意する人がいるとのニュースを目にした記憶がある。おそらく学生時代も含め、“1年目”は何事も難しい。事実、練習初日から圧倒された憲剛さんも、その後のキャンプでさらなる衝撃を受けることになる。

<パート2に続く>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)

<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。

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