第105回「全国高等学校野球選手権記念大会」は、神奈川代表の慶応義塾高校(森林貴彦監督)が107年ぶり(1942年〜45年は中止)に優勝し、幕を閉じた。「エンジョイベースボール」を標榜し、甲子園を沸かせた母校に、銀傘の下から熱い声援を送った人がいる。大和市出身で同校野球部OBの普久原祐輔さん(33)だ。

「見よ、風に鳴るわが旗を」―。「この歌を聴くと涙が流れます」。決勝で仙台育英を下し、塾歌が流れると、15年前の夏が思い出された。

大和東小時代に「南林間ファイターズ」で野球を始め、4年生から「瀬谷リトル」に移った。光丘中に進学後は、父・毅さんが監督を務める瀬谷シニアで続け、四番打者として活躍。中3夏の全国大会では、8強の立役者となった。

後に中日ドラゴンズに入団する兄・淳一さん(40)と同じ桐蔭学園に進むことも考えたが、「勉学との両立、主体的に考えて野球に取り組んでみたい」という思いから、慶応をめざした。人材の多様性、社会先導者の育成から03年に始まった推薦制度を利用し06年、同校に入学した。

入学時の部員数はおよそ120人。強豪校とは違い野球部の寮などはなく、髪型も自由。上田誠監督(当時)はこのころも「エンジョイベースボール」を掲げ「自分なりに考え、自分なりの考えを持ちなさい」と繰り返した。中学時代は1mmという短髪だったが、3cmほどに伸ばした。

高校野球の強豪と知り門を叩いたが、練習以上にハードだったのが学業だった。3時間ほどの全体練習を終えると、後は個人の裁量。素振りをする者、筋トレをする者...。「授業の課題もおろそかにはできない」。文武両道と言っても、両立はそう簡単ではなく、留年する者も珍しくない。「いっそ『管理野球』の方が楽なのでは、と考えることもあった」

右ひざの怪我に悩まされることが多かったが、高2の春からベンチ入りし、自分たちの代になると「代打の切り札」として定着した。08年、最後の夏は第90回記念大会。北神奈川大会を戦い、決勝に駒を進めた。相手は大田泰示(現DeNA)擁する東海大相模。監督からは「10回やったら9回負ける相手。思い切り行け」と言われた。

4対6で迎えた9回表。出番がやってきた。8番打者で終わった8回終了時、「仲間の高校野球を終わらせられない」と、トイレで嘔吐を繰り返した。「唇が震えていたよ」。ベンチから打席に向かう時の様子を同僚から後で聞かされた。

値千金のレフト前ヒットから追いつき、延長13回の戦いを制した時、少し報われた気がした。「髪を伸ばし、『エンジョイ―』を掲げると、他校から『お前たちみたいに遊びで(野球を)やっていない』と言われることもあった」から。

最後の甲子園では、準々決勝の浦添商戦で延長10回、センター前ヒットを放ち、これが現役最後の打席となった。

慶応義塾大学に進学後は、学生コーチとして野球部に帯同した。現在は競技を離れ、妻・娘と都内に暮らす。今夏、甲子園には3度足を運び、後輩たちに声援を送った。

「全国制覇によって慶応のスタイルが世に知れ渡ったことは、OBとしてうれしい」と普久原さん。そして、これまで甲子園を盛り上げた多くのチームの特徴を肯定した上で「慶応のようなチームも中にはあるんだということを分かってもらえ誇らしく思います」。

普久原さんにとってのエンジョイベースボールとは。「野球を自分なりに突き詰めていく中で見つけられる楽しさのことだと思います。勝敗、心身の上達、野球以外のことに対する姿勢...。成人して思うのは、自分の考えがなければ社会では立ち行かなくなるということ。エンジョイベースボールは、今も私の支えになっています」

「樹てんかなこの旗を強く雄々しく樹てんかなあゝわが義塾慶應慶應慶應」―。高校野球に一石を投じた母校の夏が終わった。