この時、室原では帰還した家はほかになかった。子どもたちは長女だけでなく、長男も仕事を得て広島に定着し、神奈川にいる次男を含め、誰も帰る気配はない。孫が8人いるが、みな県外だ。農業を再興しても収穫や草抜きを手伝ってくれる仲間がいないのだ。

向こう3年は避難指示解除後にできた農事復興組合が作業を肩代わりしてくれるが、その先は自分でしなくてはならない。72歳の今でこそ体が動くが、いつまでも自分一人で農作業できるかと問われれば、不安になる。周囲には店も病院もないので車での遠出が必要だ。

「寂しいという思いはあるけれど、それが現実だし、(子どもたちに)来いと言いたくてもそれぞれ生活があります。都会に行けば生活は快適かもしれないけど、私なんかはこういう田舎で育ったから、こういう風景が性にあっているもんね。誰にも気兼ねがないし」

一番好きな場所に戻った喜びと、これからへの不安が入り混じった言葉だった。

98歳の母の夢を叶え、自分で家を建てた74歳

浪江町の計画では、室原地区は営農再開と並んで、防災拠点となることが期待されている。常磐自動車道のインターチェンジがあり、国道が通る地の利を生かしてのことだ。

その一環として広い駐車場と非常食・飲料水などの備蓄倉庫が併設された避難所の建設が進んでいた。500人収容というその施設は大きく堅固そうだが、それに負けない勢いで、向かい側に2階建ての大きな日本家屋が作られていた。

白河市の避難先から戻ってきた金沢政喜さん(撮影:筆者)

出来上がり間近の家の中では、家主の金沢政喜さん(74歳)が内装工事をしていた。金沢さんは大工仕事もする兼業農家だったが、事故後は室原から130キロ離れた県南の白河市に家族4人で避難。12年間にわたって室原の避難指示解除を待ち続けた。解除後は片道2時間かけて車で毎日通い、自分の手で家を建てているという。

「おふくろを連れてきたいから。おふくろは、いつ帰る、いつ帰る、って毎日言ってんだ。避難先だと惨めだもん」

「この家に誰が住むのですか」と問うと、小柄な政喜さんは「おふくろと女房、俺。あと息子が1人入るから4人。あと猫1匹。犬も飼わないとダメだな、猟犬。そこまで猿が来るから」と笑顔で話した。

息子というのは次男の政幸さん(41歳)。独身で、富岡町に住み、楢葉町の老人介護施設で働いている。浪江からでも通勤可能なので、「自分の部屋も作って」と名乗り出たという。