2024/10/20 12:08

【武勇伝】デヴィ(84)「私は大統領から選ばれた」

デヴィスカルノ

「デヴィ夫人」の本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ。出生時の名前は根本七保子で、それがどうして「デヴィ」になったのか。

彼女の結婚相手はインドネシアのスカルノ元大統領だが、同国の多数派を構成するジャワ民族は、一般的に「姓」の概念がなく、大統領の名前も「スカルノ」だけ。婚姻後には、妻の個人名に夫の名前を続けることによって、夫婦だと示す風習があるそうで、その例に倣うとデヴィ夫人の場合、本来ならば「ナオコ・スカルノ」となる。

だが、そこでスカルノが妻の美貌を絶賛し、「聖なる宝石の妖精(ラトナ・サリ・デヴィ)」の呼び名を与えたことで、この名前が定着したという。

反植民地運動を経てインドネシアを独立に導いたスカルノは、今もなお多くの国民から「建国の父」として慕われ、最高額紙幣に肖像画が使われる立志伝中の人物である。

そんなスカルノとデヴィの出会いは、1959(昭和34)年のこと。先の大戦中から日本と親密な関係があったスカルノは、戦後も互いの国の発展のため貿易や投資など経済面での関係を続けてきた。

そんな中で訪日したスカルノが、当時の外国要人たちの社交場だった東京・赤坂の超高級クラブ『コパカバーナ』(水割り1杯が大卒の初任給レベルともいわれた)で、まだ19歳のデヴィを見初めて求婚したと、一般的には伝えられている。

しかし、いくら美人だからといって、夜の店で働くホステスを国家元首がおいそれと妻に迎えるとは考えづらい。そのため一説には、日本とインドネシアの貿易窓口だった人物が、デヴィを「秘書」の名目でインドネシアまで連れて行き、スカルノとの仲を取り持ったともいわれる。

つまり、デヴィとスカルノの結婚は、両国の結び付きをさらに強めようという、一種の政略結婚的な意味合いがあったとも考えられる。

インドネシアでは一夫多妻制が認められていることから、1962年に第3夫人となったデヴィは、スカルノとの結婚について「ジャカルタで見た大統領はまさに神様のような存在であり、全国民から敬愛されている姿に心を打たれました」「私は大統領から選ばれたのだ。そして、選ばれた以上は、全力で大統領にお尽くししようと思ったのです」と語っている。

だが、日本人の感覚からすると、正妻ではない第3夫人というのは、ただの愛人のようにも見える。そのため日本の一部マスコミからは、ホステスだった前歴とも合わせて、まるで「売春婦」と言わんばかりの報道がなされることもあった。

結婚から3年後の65年には、インドネシアで軍事クーデターが勃発。スカルノは失脚して軟禁状態となったが、その直前にデヴィは第1子を授かっており、日本の病院で長女を出産した。

デヴィは身の危険から日本への亡命を希望したが、日本政府はインドネシア新政府と軋轢が生じる可能性があるとして拒否。結局、デヴィはフランスへ亡命することになった。

70年にスカルノが亡くなると、デヴィは日本で芸能活動を開始し、74年には雑誌『GORO』(小学館)創刊号の目玉として、グラビアを披露している。

これらと並行して当時のデヴィは、インドネシアで石油関連のビジネスに取り組んでいた。いわゆる第三世界におけるリーダー的存在として、国際的にも知られたスカルノだけに、その没後も未亡人であるデヴィの社会的地位は高く、西欧社交界でも世界的なセレブの一人として迎えられた。

デヴィは「東洋の真珠」と称賛されながら、各国の要人や貴族たちと「親密な交際」を続けていたとされる。

しかし、90年代になると暴動や通貨危機などが続き、インドネシアにおける事業継続を断念。2000年からは日本のテレビ番組へ積極的に出演するようになり、いつしか肩書も「元大統領夫人」から「タレント」へと変わっていった。

第3夫人としての遺産分与があったとされ、金銭的に困るはずのないデヴィだが、それでもお笑い系バラエティーに多数出演している。これについては「テレビに出ていたほうが絶対にいいのです。露出の多さは影響力につながり、社会活動を支える力になってくれますから」と話す。

実際のデヴィはいくつかのNPO法人を主宰する篤志家でもあり、今もなお慈善活動を生きがいとしているのだ、と週刊実話WEBが報じている。

「私は選ばれたのだ」超高級クラブホステスからインドネシア大統領夫人に上り詰めたデヴィ・スカルノの武勇伝/サマリー|週刊実話WEB「私は選ばれたのだ」超高級クラブホステスからインドネシア大統領夫人に上り詰めたデヴィ・スカルノの武勇伝/サマリー|週刊実話WEB

編集者:いまトピ編集部