「ドライブ・マイ・カー」(2021年公開)で米アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督(45)の最新作「悪は存在しない」が26日に公開される。「ドライブ―」以来、3年ぶりの長編映画で、ベネチア国際映画祭の銀獅子賞(審査員グランプリ)受賞作。当初、運転手として参加していた演技未経験の大美賀均(おおみか・ひとし、35)を主演に抜てきし、先の展開が読めない謎めいた作品に仕上げた。(有野 博幸)

 世界が認めたオスカー監督の最新作。周囲の期待は高まっているが、「プレッシャーがなくはないけど、それを考えなくてもいいように、これをつくった」と涼しい顔だ。タイトルは「自然をほかの言い方で表現しよう」と考えて「悪は存在しない」に決めた。「災害があっても、自然に悪は見いださないですよね。結果として、内容と面白く響き合っている」と説明した。

 当初は長編映画を撮る予定ではなく、極めてイレギュラーな形で撮影が進行した。「ドライブ―」で音楽を担当した石橋英子さんから依頼されたライブパフォーマンス用の映像が企画の発端で、「気分よくつくることができた。予算規模は大きくないけど、制約がなく、自由に遊ぶことができました」と振り返る。

 2022年9月頃からライブパフォーマンス用映像を製作するため、石橋さんの音楽スタジオがある山梨、長野の県境でリサーチを開始。試行錯誤していると、石橋さんから「濱口さんが普通にやった方が面白いと思います」と言われ、「しっかり脚本を書いて、映画を作るつもりで演出して、そこから使える映像をライブパフォーマンス用の映像にすることにしました」。

 「偶然と想像」の製作スタッフで映画監督でもある大美賀を主演に起用するなど、異例のキャスティングとなった。「リサーチの段階から運転手だった大美賀さんにスタンドイン(リハーサルなどで俳優の代わりに現場に立つこと)してもらっていました。『何を考えているのか分からない、いい顔しているな』『この人でいけるのでは』と思い、お願いすることにしました」

 無名の人物を主演に抜てきすることに迷いはなかったのか。「企画の成り立ちが、お客さんが入るかどうか、ではなく、石橋さんの映像を見る人が対象。だから名前のない人でも成り立つ。それによって、いつも以上に自由につくることができたし、自分のやりたいことに思い切って舵(かじ)を切ることができた」。即興芝居をテーマにしたワークショップの参加者を起用した「ハッピーアワー」(15年)の経験も生かされた。

 「キャスティングありき」の作品が多い映画界へのアンチテーゼだ。「大作映画の場合、予算を回収しないといけない」。ただ、有名俳優を起用すると観客に「この人が演じる主人公が死ぬわけない」「この人が、こんなに小さい役を演じるのは不自然」と疑念を抱かせる。「大美賀さんを起用したことで、主人公が良い人なのか、悪い人なのか、得体(えたい)の知れなさを保つことができた」

 試写を見た関係者から「外国映画みたい」と感想を言われたという。「東欧の映画とか、知らない俳優でも楽しめる。むしろ、先が読めなくてミステリアスに感じますよね」。物語の展開も王道とは違う独自路線だ。「若い頃に見た低予算映画は『あれは、何だったんだ?』という疑問が多かった。それがマイナスかというと、決してそうではない。むしろ、映画を満喫したという気分になった」。そんな過去の映画体験も背景にある。

 大美賀を起用したことによって、世界観がより観客に伝わった。「何を考えているか分からない人は魅力的。人生の味がある。演技を知らないことで、えぐみ、独特の味が出る。いつも『本当にこの人だけに見えるように』と思って演出するけど、今回はその苦労がなかった」。裏返せば、有名俳優を起用する場合、先入観を取り除く必要があるということだ。

 映画におけるキャスティングについて、改めて考えた。「キャスティングは大事ですが、語ろうとする物語に誰が合っているか、それが大事。プロデューサーやスポンサーの立場なら、なかなか『無名の役者でいいですよ』とはならないですよね。ただ、物語に合った人を探さないと、結果的に観客の支持は得られない。今回は大美賀さんがベストだった」

 山梨、長野の県境でリサーチをする中でグランピング場建設計画について聞き、「自然と人」を物語の中核に脚本を書き始めた。「環境問題に関心はあるけど、それを押し出したいわけではない。水のこと、汚水のこと、それを考えずに自然をビジネスに利用する。健康を考えずに働かせる労働の問題にも似通っている気がした」。スクリーンに映し出される自然の繊細な動きも見どころだ。

 今後、製作費の大きな大作映画に挑戦する意向はないのか。「やれるなら、やってみたい。ただ、自分の演出能力の限界もある。自分に合った企画があれば、やってみたい」。世界が注目するオスカー監督になっても背伸びをすることなく、映画づくりのスタンスは変わらない。

 ◆4冠制覇して原点を再確認 〇…濱口監督はベネチア、カンヌ、ベルリンの世界3大映画祭のグランドスラムを達成し、米国アカデミー賞を含む4冠制覇は黒澤明監督以来の快挙だ。米国アカデミー賞では世界的巨匠とも交流した。「スピルバーグ監督に会って、別世界だと思っていた舞台が、この世界と地続きだった」。一方で映画づくりに関しては「どれだけ予算の大きな大作映画でも、個人的な感情が核になっていることが分かった」。栄冠を励みにしつつ、原点を見つめ直した。

 ◆「悪は存在しない」 自然が豊かな高原に位置する長野県水挽町(みずびきちょう)は移住者が増加傾向。そこに代々、暮らす巧(大美賀均)と娘の花(西川玲)の暮らしは、水をくみ、薪を割るような、つつましいものだった。ある日、彼らの住む家の近くにグランピング場をつくる計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねない、ずさんな計画に町内は動揺し、巧たちの生活にも影響を及ぼす。

 ◆濱口 竜介(はまぐち・りゅうすけ)1978年12月16日、神奈川県生まれ。45歳。東京芸術大学大学院映像研究科で黒沢清監督に師事。2018年の商業デビュー作「寝ても覚めても」がカンヌ国際映画祭に出品。20年にベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した黒沢清監督作「スパイの妻」の共同脚本を手掛ける。21年の「偶然と想像」がベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)、「ドライブ・マイ・カー」がカンヌ国際映画祭で脚本賞、米アカデミー賞で国際長編映画賞。