江戸無血開城とサトウの役割

 徳川慶喜は恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。しかし、東征軍は東海、東山、北陸道からの江戸総攻撃を準備した。サトウは4月1日から1週間程度、情報探索のため江戸へ派遣された。サトウ日記がこの間空白なため、様々な解釈が成立している。

 通説では、5日および6日の西郷隆盛と勝海舟の2度の会談(高輪薩摩藩邸)の事実を知らず、7日の江戸総攻撃が延期されたことを把握していなかったとされる。これは、西郷にも勝にも、サトウは会えていないことが前提となっている。

 ところで、『一外交官の見た明治維新』によると、「わたしの主な情報源は、かつて徳川海軍の総指揮官であった勝安房守であった。わたしは人目を避けるために、ふつう暗くなってから勝を訪ねた」との記載がある。これに対する代表的な解釈として、萩原延寿『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』7(江戸開城)では、「これは、そのあともう一度横浜から江戸に出てきてからのことであろう。実情は江戸に入った当初、いったいだれが東征軍の矢面に立つ徳川側の最高責任者であるのか、サトウにもただちに察しがつきかねたのではないか」としている。

 サトウの次回出府は、4月11日であった。この段階では、江戸総攻撃は中止されており、江戸市中に安堵感が漂っていた。この時点で「人目を避ける」必要性は、どの程度あったのだろうか。断定こそできないが、サトウが勝邸を訪問したのは、4月初旬ではないかという可能性を提示しておこう。

 ところで、西郷の江戸総攻撃から無血開城への転換は、パークスの圧力であるとされている。そのお膳立ては、4月初旬に開催されたかも知れないサトウ・勝会談によって成された可能性も指摘しておきたい。そもそも、サトウの居所は泉岳寺(芝高輪)前のイギリス公使館(高輪接遇所)付近であり、西郷・勝会談地から指呼の間であった。サトウは、その会談情報を掴んでいる可能性もあり、サトウの役割は要検討であろう。