戊辰戦争とイギリスの対応

 5月3日、江戸城が無血開城された。7月4日、上野戦争(寛永寺に立て籠もった旧幕臣ら彰義隊が敗北)によって、関東は旧幕府軍から新政府の勢力圏となった。これを機に、パークスは新任の公使館書記官アダムズやミットフォード、そしてサトウらとともに大坂へ向かい、5月22日、外国政府代表として初めて、大坂東本願寺で新政権承認への信任状を明治天皇に提出したのだ。

 6月22日、奥羽越列藩同盟が成立し、戊辰戦争は北越から東北へと展開した。11月6日、会津藩が降伏したことにより、帰趨は新政府の勝利へと決し始めた。なお、その前の9月8日から、アダムズとサトウは軍艦ラットラー号で新潟情勢とロシアの国後・択捉島占領の風説を確かめるため、北方視察に赴いた。

 なお、サトウを乗せたラットラー号は宗谷沖で座礁・遭難のトラブルに見舞われたが、フランス軍艦デュブレクスに救出され、事なきを得た。また、11月26日、サトウは東京に入る明治天皇を高輪接遇所前で見送ることができ、「鳳輦通過の際群衆が静まりかえった」と、その感動を日記に記載した。

 1869(明治2)年1月1日、東京が開市され、5日にサトウを含むイギリス外交団は皇居(江戸城)で天皇に謁見した。 ちなみに、1868年12月9日、旧幕府軍の榎本艦隊は箱館を制圧し、交戦団体であるとの声明文を発表して、諸外国に局外中立を要請した。しかし、1869年6月27日、新政府軍の攻撃により降伏し、ここに戊辰戦争は終結したのだ。