明治時代のサトウの動向

 1868年中に、サトウは賜暇帰国を希望し、1869年2月2日のシーボルトの日本帰任により、1年の賜暇帰国が確定した。サトウの功績に対し、岩倉具視から蒔絵の用箪笥、島津忠義から孔雀形の銀の舟の置物、勝海舟から脇差、明治天皇から大きな蒔絵の用箪笥などが贈られ、盛大な送別の宴が開催されたのだ。

 2月24日、長男の病気治療のため帰国するパークス夫人や会津藩士野口富蔵らとともに、サトウは横浜を出航した。後年になって、サトウは1862年からの7年間が「人生でもっとも充実した時期」「本当に生きていた」と回想している。それだけ、この期間がサトウにとって、充実した日々であったのだろう。

 1870年(明治3)11月、サトウは1年8ヶ月ぶりに日本帰任した。その後、外国人として初めて、伊勢神宮に参拝するなど日本各地を旅行した。また、日本に関する言語・考古学・歴史・民俗・地理・宗教に関する論文や旅行案内など、数多くの著作を執筆した。サトウは、それらを日本アジア協会を中心に発表し、日本研究の第一人者の称号をほしいままにしたのだ。

 1875年(明治8)、サトウは2度目の賜暇休暇で帰国した。1877年(明治10)2月、東京に帰任する途中、西南戦争直前の鹿児島に入り西郷隆盛と再会した。しかし、私学校生徒に取り囲まれていた西郷とは、会話らしい会話が叶わず、さぞや残念な思いであったことは想像に難くない。

 1871年(明治4)ころ、武田兼と結婚し、2人の息子(次男の武田久吉〈1883年3月2日 - 1972年6月7日〉は植物学者、登山家)と1人の娘が誕生している。1884年(明治17)、バンコク(シャム)総領事に転任し、1885年(明治18)には公使に任命され、所属が領事部門から外交部門に異動した。

 1889年(明治22)にモンテヴィデオ(ウルグアイ)、1893年(明治26)にタンジール(モロッコ)の公使を経て、日清戦争後の1895年(明治28)5月、日英関係強化のため日本公使に任命され、同年7月に12年ぶりに日本に赴任した。サトウの感慨は、いかがなものであったろうか。

 極東情勢の急転により、1900年(明治33)8月に駐清公使に任命され、義和団事件の事後処理にあたった。 そして、1906年(明治39)5月、清国での任務を終え日本経由で帰国し、45年におよぶ外交官生活から引退した。帰国後はオタリー・セント・メリーに隠栖し、1929年(昭和4)8月26日、86歳で逝去した。

 サトウの人生は、まさに東洋とともにあり、特に日本との繋がりは最も深いものであった。サトウなくして、近代日本のスタートはうまくいかなかったのではなかろうか。それほど、日本に大きな足跡を残し、貢献してくれた外国人であったのだ。

(町田 明広)