生き馬の目を抜く芸能界で勝ち残り、誰もがうらやむ富と名声を得たスターであっても、生きるために与えられた時間は無限ではない。そんな彼らを生み育て、一代で王国を築いた「芸能界のドン」もまたしかりで、人生のたそがれ時に重大な決断を下したというのだが……。

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 国民的長寿番組として親しまれた「笑っていいとも!」(フジテレビ系)の最終回が放映されたのは、2014年3月31日のことだった。あれから10年の節目を迎えようとする中、奇しくもNHKの人気番組「ブラタモリ」が、今年3月をもって終了する。

 博覧強記のタモリ(78)が全国津々浦々を巡る内容で、教養番組の新たな形を築いてきただけに、突然の終了を惜しむ視聴者は数多い。

「オールロケの番組ですから、後期高齢者の仲間入りを果たしたタモさんにとっては、体力的にもキツイ部分があったと思います」

 と話すのは、スポーツ紙の芸能デスクだ。

「昨年に名物番組だった『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)が終了して以降、女性誌などではタモさんが80歳を迎える25年までに芸能界から引退することを決意し、親しい人らに“終活を始めた”と漏らしているなどと報じられましたが、それを裏付けるかのような終了宣言となりました。これで4月からタモさんが出演するレギュラー番組は、テレビ朝日系の『ミュージックステーション』のみとなります」

「さすがのドンも終活か」

 ご存じの通りタモリは芸能界の大御所で、ビートたけし(77)、明石家さんま(68)と共に「お笑いビッグ3」と呼ばれてきた。何かと衰えの目立つ他二人と比べても、多彩な活動を続けるタモリは、決してお茶の間の人気が衰えたわけではないが、着実に露出を減らしてきたのは事実である。

 そんなタモリの“終活”と軌を一にするかのごとく、大きな決断を下した男がいる。人呼んで“芸能界のドン”。タモリの所属事務所・田辺エージェンシーで社長を務めてきた田邊昭知(しょうち)氏(85)が、2月20日付で会長へと転身したのだ。

 芸能界の大御所として表舞台に立つのがタモリなら、田邊氏は裏方の重鎮としてテレビ局や他の大手事務所などにも多大な影響力を持ち、芸能界では誰もが無視できない存在として知られている。

 そんな男が、自身の名を冠した芸能事務所を創業して以来、およそ半世紀も占めてきた社長の座から退いた。そう聞いた芸能関係者の間では、「さすがのドンも終活か」という臆測が飛び交っているのだ。

「早期退職を推奨」

 さる芸能プロ関係者はこう話す。

「2月下旬、テレビ局や芸能プロ幹部など業界関係者に、田辺エージェンシーから社長交代を告げる手紙が一斉に届きました。会長に退くとはいえ代表権はそのままのようですから、今後も芸能界への影響力は残るでしょうが、『ブラタモリ』の終了が発表された直後でしょう。昨年、田邊さんは創業以来付き合いのあった税理士事務所との契約を打ち切り、子飼いの社員に向けて“退職金を弾む”といって早期退職を推奨。実際に秘書や運転手、ファンクラブの事務などを務めていた社員たちが5人辞めて、残ったスタッフは10人にも満たないそうなんです。堺さんの独立騒動もありましたからね。このまま店を畳むつもりなんじゃないかと訝しむ人もいます」

 ここで言う「堺さん」とは、大ヒットドラマ「半沢直樹」(TBS系)の主演・堺雅人(50)を指す。下積み時代から20年以上も田辺エージェンシーに在籍しながら、22年末に独立。昨年1月、本誌(「週刊新潮」)取材に応じた田邊氏は初めてことの顛末を語り、語気を強めて「もう一緒に仕事なんてできないよ」と突き放した。

新社長の手腕に疑問の声も

 看板俳優の独立に加え、これまで屋台骨を支えてきたタモリまでもが活躍の場を狭めるとなれば、同事務所に残るベテランは永作博美(53)だけとなる。業務提携を結ぶ芸能人には研ナオコ(70)や由紀さおり(77)の名もあるが、大手芸能プロとして心もとない布陣なのは否めない。

 しかも、である。“ドン”の後継として新社長に就任した菅原潤一氏(77)の手腕を疑問視する声も聞こえてくるのだ。田辺エージェンシーのグループ企業で、前田亘輝がボーカルを務めるTUBEなどが所属する芸能プロ「ぐあんばーる」の社長を兼務する菅原氏は、もともと田辺エージェンシーの社員だった。

 先の関係者が明かすには、

「菅原さんが辞めたのは40年も前のことですが、タモリさんのギャラを着服しているのではないかとの疑惑を社内で追及されるタイミングで姿を消したとか。それを知ってか知らずか、田邊さんは退社後の菅原さんと関係を続け、いまだ芸能の仕事に携わる数少ない元社員として、今回の後継指名となったわけです。昔を知る人の中には、本当に田邊さんの後を継げるのか首をかしげる向きもあります」

 そもそも田邊氏が“ドン”として芸能界でカリスマ力を誇ってきたのは、自らが一時代を築いた自負があるからに他ならない。1961年にグループ・サウンズ(GS)バンド「ザ・スパイダース」を率いて芸能デビューを果たした田邊氏は、メンバーの井上順(77)や堺正章(77)、故・かまやつひろしらと「GSブーム」の先駆者として音楽界を席巻。ザ・タイガースと人気を二分した。66年にはスターの活動を続ける傍ら、芸能プロ「スパイダクション」を立ち上げて社長となる。

剛腕ぶりを発揮

 滅多に取材を受けない田邊氏が、当時を振り返った貴重なインタビューがある。「日刊スポーツ」の連載〈芸能界を動かすトップたち〉(92年3月18日)には、こんな記述が見られる。

〈スパイダクションの社員に対してはスパルタ教育でしごき、「ヒトラー以上の独裁者」とメンバーに評されていた〉

 と前置きがあり、続けて、田邊氏本人がこう話す。

〈かなりヤンチャだったし、乱暴だったと思う。そうしないと、まとめること、統率することはできない。乱暴といっても暴力を振るったわけじゃなくて、乱暴な発想もするということ。クリエーティブな仕事には乱暴な発想が必要なんです。想像、空想、推理から入っていく。独断と偏見で推し進める。(それでも皆がついてきたのは)人望とかじゃなくて、僕より皆の方が人物だったんですよ〉

 70年に芸能活動から引退した田邊氏は、3年後に現在の田辺エージェンシーを設立して芸能事務所の経営に徹する。ナベプロやホリプロなどが権勢をふるう昭和の芸能界にあって、彼は剛腕ぶりを発揮して研ナオコやタモリといった個性派たちを、一躍スターダムに押し上げたのだ。

数々の女優と浮名を

 スターを経て裏方に回ってもなおさんぜんと輝き続ける男に、名だたる女優たちも引き寄せられていく。往時、芸能ニュースを盛んに扱っていた「週刊平凡」や「週刊明星」のページをめくれば、田邊氏が篠ひろ子(75)や加賀まりこ(80)といった女優と浮名を流した記事が散見されるのである。

 前出の芸能プロ関係者に言わせれば、

「酒が飲めない代わりにコーヒーで朝までとことん付き合う田邊さんは、とにかく女優やモデルを諭すわけだ。もっとこうすれば売れるのにナゼしない!といった具合に、詰問しつつも叱咤激励して相手の心をつかんでいく。いつしか“田邊は説教しながらパンツを脱がす”なんて話が飛び交ったほどだよ」

“恥として受け止めています”

 長らく独身を貫いてきた田邊氏が、ついに身を固めたのは91年だった。齢52にして、女優で歌手の小林麻美(37)=当時=と入籍。長男・泰三くんが生まれたことを記者会見で発表して世間の度肝を抜く。

 先の芸能デスクによれば、

「田辺エージェンシーに移籍した小林が、17年来の交際を実らせたことでも話題になりましたが、会見で田邊さんは、所属タレントに“お手付き”したことを問われると、自ら“恥として受け止めています”と潔く言い切ったことが印象に残っていますね」

 寵愛した女性絡みの話となれば、“ドン”はたしかにその剛腕ぶりをいかんなく発揮してきた。

 2016年、田邊氏の事務所に所属していたタレントで元日本テレビアナウンサー・夏目三久(39)が、有吉弘行(49)と交際していたことがスポーツ紙にスッパ抜かれるや激怒し、テレビや新聞に続報しないよう根回しを図ったとの逸話も残る。

 同じ年に起きた「SMAP解散騒動」では、香取慎吾(47)、草なぎ剛(49)、稲垣吾郎(50)と共に、ジャニーズ事務所を飛び出した飯島三智(みち)氏(66)が、田邊氏に後見人になってくれるよう打診したと報じられた。生前ジャニーズで権勢をふるっていたメリー喜多川氏と旧知の間柄だった彼が、仲裁役となった格好である。その後の香取らによる「新しい地図」の活躍を見れば、田邊氏の仲介が功を奏したのは明らかで、事務所の垣根を越えトラブルの火消しを担えるのが、“ドン”と呼ばれるゆえんだろう。

「見ていて下さいよ」

 だが、方々に影響力を持つ田邊氏にとって長年の懸案だったのが、自身の後継者問題だ。今回の社長交代で解決を見たのか。

“終活問題”も含めて田邊氏本人に問うと、

「(終活なのかは)あなた方が勝手に思っている話でしょう。社長が新しくなれば、それなりのことができる。日にちはかかるかもしれないけど、まぁ、見ていて下さいよ」

 そう話すだけだったが、改めて事務所に質問状を送ると、新社長となった菅原氏が対面で応じた。

「昨年から、田邊会長は“何か新しいことをやりたい”と仰っていましてね。音楽の世界でもアーティストがネット配信やサブスクなどを通じて自己完結できる時代にあって、メジャーのレコード会社やプロダクションも、何か新しいことを考えて行動しないといけないと話をしていたところだった。私としても、研ナオコさんとか、ドリフとも共演できる由紀さおりさんとか、歌も芝居も笑いもできるような逸材、現代のコメディエンヌを見つけ出したいと思っていましたので」

“着服疑惑”については…

 最終的には年末から年明けにかけて、新社長就任の打診を受けたという。

「田邊会長から“一緒に新しいことをやろう”と言われ、私も“はい、分かりました”と応じて社長就任が決まりました。私が言うのもおこがましいですが、ある部分で気心が知れているというか、会長からご指導をいただいて50年にもなります。1984年に一度、事務所を辞めていますが、それからも月に2、3度はお会いして相談に乗っていただいておりましたから」

 過去の“着服疑惑”については、こう話す。

「あの時、安月給なのに銀行の方に無理にローンを組んでいただいて、分不相応の戸建てを買ったことで、周囲から“アイツは悪いことをしたんじゃないか”と言われたことはありますが、着服が本当にあったなら、田邊会長も私に声をかけないでしょう。そういううわさが出ているなら、それは私の日々の行いが良くなかったということだと思います」

 時に人事刷新は組織にとって希望の光となるが、“ドン”の決断は果たして新たな夜明けとなるか。たそがれ時の残照となってしまうのか。

「週刊新潮」2024年3月7日号 掲載