「キントー様」って誰?

 視聴率はいまひとつふるわないものの、大河ドラマ「光る君へ」は、SNS上の盛り上がりには事欠かないようだ。

『源氏物語』ファンだという40歳代のある歴史マニア女性=“歴女”が、興奮気味に語る。

「まひろ=紫式部の母親(国仲涼子)が第1回でいきなり惨殺されたのには、驚きました。3月3日の第9回では、今後、物語のキー・パーソンになるとばかり思っていた直秀(毎熊克哉)があっけなく処刑されて退場。劇的展開に目が離せません。“平安時代は、合戦も戦闘もないので大河ドラマは無理”なんていったのは、どこの誰ですか」(歴女)

 だが、話題になっているのは、激しい展開ばかりではない。

「サブ主人公、藤原道長(柄本佑)の友人で、イケメン貴族たちが登場するのですが、2月18日の第7回で、彼らが、かなり長い時間、細マッチョの着物を脱いだ姿を見せてくれたのです。NHKとしては珍しい、出血大サービスでした」(同)

 それは、彼らが「打毬(だきゅう)」という、ポロに似た、馬に乗って争う球技のシーンだった。終盤で雨に降られ、びしょ濡れになったイケメン軍団が、室内で身体を拭きながら会話を交わす。たしかに必要以上に長く感じた視聴者も多かったようだ。それだけに、SNS上で話題になったのも当然だった。

「特に驚いたのが、藤原公任(ふじわらのきんとう)を演じている、劇団EXILEの町田啓太クンの姿でした。2021年の大河ドラマ『青天を衝け』にも、土方歳三役で出演していましたが、まさか今度は、キントー様の役で、しかも着物を脱いだ姿を見せてくれるとは!」(同)

 どうやら町田啓太が、キントー様=藤原公任を演じることは、歴女にとっては、たまらない魅力らしいのだ。いったい、そのキントー様とは、どんな貴族なのだろうか。

「キントー様は『和漢朗詠集』の撰者で、平安貴族を代表するイケメン・インテリです。主に、3つのエピソードが有名です」(同)

 なぜ会ったこともないのにイケメンとわかるのか不思議だが、とにかく急いで説明してもらおう。

「三舟の才」の語源は……

「まず、『百人一首』の第55番〈滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ〉……この滝はすでに涸れているが、かつての名声はいまでも知られている——この有名な歌を詠んだ方です」(同)

 その場所は、京都・大覚寺の大沢池庭園の一角に “名古曽の滝跡”として伝わっており、現在、一帯は国指定名勝である。

「次が、『紫式部日記』に書かれた、宴のエピソードです。キントー様が紫式部に、冗談で『ここに(源氏物語のヒロイン)若紫はおいでですか?』と聞いたそうです。すると紫式部は『(架空の話なのだから)いるわけないでしょ』と思ったという。この記述から『源氏物語』が貴族に読まれていたこと、また、第5帖『若紫』の成立時期も確定できるのです」(同)

 この記述は「若紫」ではなく、「我が紫(式部)」で、実はこの2人は男女関係にあったとのトンデモ解釈もあるらしい。果たして大河ドラマでは、どうなるか?

「最後はもっとも有名な、“三舟の才”です。ある舟遊びで、3隻の舟が用意されました。和歌の舟、漢詩の舟、管絃(楽器演奏)の舟。この3つは当時の貴族たちの必須教養で、招待者は指定されたどれかの舟に乗ります。しかしキントー様だけは、好きな舟を選べといわれた——つまり彼は、3つすべてに秀でていたわけです。これを機に、多分野の才能にあふれることを、“三舟の才”と呼ぶようになったのです。さらにこのときキントー様は……」(同)

 もうけっこうです。キントー愛は、十分に伝わりました。次のコメンテーターが控えておりますので。

公任が書写した「古今和歌集」

 さて、かように大河ドラマでも話題のインテリ貴族だが、「藤原公任は、いまから約30年前、神保町・古書店街を騒然とさせた男なのです」と教えてくれるのは、初老の古書マニア氏である。

「1992年に、『古今和歌集』写本が神保町の古書店から売りに出されました。『古今和歌集』の写本といえば、東京国立博物館が所蔵している、国宝の“元永本”が最古とされています。平安時代末の元永3(1120)年に藤原定実が書写したとされる完本です」

 ところがこのとき神保町に出現した写本は、レベルがちがった。

「なんと藤原公任の書写だというのです。彼の生没年は966〜1041年ですから、本物だとすれば、東博の国宝“元永本”より古いことになる。序文に欠落があるものの、本文はほぼ完本で、美麗にして墨跡も見事。そんな逸品が、神保町の古書店から売り出されたのですから、世間が驚いたのも無理ありませんでした」(古書マニア)

 売り出したのは、玉英堂書店。1902(明治35)年開業の、日本を代表する老舗古書店である。

〈平成四年五月十日のお昼すぎ、一本の電話が鳴りました。「古今和歌集の写本があるのですが、見て頂けませんか」。〉

 当時の三代目社長、斎藤孝夫氏(1942〜2014)は、こう書いている(高橋輝次編『古本屋の本棚』より、燃焼社刊、1997年)。

 3日後、〈品の良い初老のご夫婦がお店にお見えになりました〉(同書より。以下同)。アメリカ・カリフォルニア州在住の日系の大学教授で、たまたま帰国中だった。

〈一ページずつゆっくりとめくっていく度に、驚きが増していきました。(略)流麗にして達者な女性的な筆跡。料紙の装飾技巧、書風・書体ともども、まぎれもない平安時代の特色を示しているではありませんか。一瞬、複製ではないかと目を疑いました。いや、こんな複製は見たことがない。冷静さを懸命に保とうとしましたが、頭や心臓はパニック状態です。〉

 終戦直後に、写本を持ち込まれたご本人の父親が、久邇宮家の秘書から購入したものだという。江戸時代の古筆家による極め書(鑑定保証書)も付いており、「四條大納言殿公任卿御真跡」とあった。要するに藤原公任によって書写されたものに間違いないというのだ。

〈保存状態は極めて良く、カリフォルニアの乾燥した気候が幸いしたのかもしれません。(略)公任筆の真贋はともかく、本書はその体裁も平安中期を下らぬ古鈔本であることは疑う余地がありません。しかも、二十巻を完存する最古の写本である元永本古今集よりもう一段古く、(略)新出の最古の完全本の出現との確信を強めました。〉

 斎藤氏は、それまでに50点以上の『古今和歌集』写本を扱ってきた。

〈その中では、伝冷泉為相筆の鎌倉時代写のもの(売価一千八百万円)……(略)などが忘れられませんが、これはそれらより数段上の、重美クラスの大物です。/「逃したくない」/思いきって買値を告げました。即座に答えも返ってきました。/「結構です」〉

 その息詰まる場面は、ミステリ小説なみの迫力だ。おなじ神保町の中野書店(当時)の中野智之氏(1954〜2014)も、同書を見せてもらった時の感動を、こう記している。

〈見本のような平安時代の粘葉装。香紙や打雲、飛び雲といった梳紙に、流麗な王朝貴族の墨跡。零葉ですら「古筆」と尊重されることでしょう。それが全く欠点の見あたらない完本。いやすばらしい。頁をめくるごと、一枚一枚がまさに紙の宝石です。孝夫さんも興奮していたな。〉(「日本古書通信」2014年3月号〜追悼寄稿「孝夫さんのネクタイ」より)

 斎藤氏は、当初、古書業界の入札会や、サザビーズなどのオークションに出品することも考えた。そのほうが、大きな利益が生まれる可能性が高い。しかし、そうはしなかった。

〈古書業者としての喜びは、良い本を扱い、それを望むお客様に納めることにあり、やはり自分の目録に出してみたい気持が強く、思いきってこの本一点だけの目録を作ることにいたしました。〉

 そして〈最後まで悩んだのが売値です。〉……それまでの最高値は、伝説の古書業者、弘文荘の反町茂雄氏(1901〜1991)が1983年に売り出した、1236(嘉禎2)年書写、藤原為家筆の『土佐日記』で「7500万円」だった。

〈目録の原稿の締め切りの日、ただ一ヶ所空欄になっていた価格を書き入れました。/「一億五千万円」〉

昭和最強の古美術商

 古書業界はたいへんな騒ぎとなった。正式な注文は、個人や機関をあわせて20件。だが、この世界では先着順が慣例である。一番目は若い個人客だったそうだが、半年間待っても支払いの見通しが立たず、断念。

〈そして二番目に申し込まれた、小田原にお住まいのSさんに決まったのです。/翌年二月十二日、私は新幹線で本をお届けに行き、その場で現金でお支払い頂きました。夕食をご馳走になり、(略)お金の入ったボストンバッグを抱え、緊張の面持ちで新幹線に乗り込みました。〉

「もちろん、商取り引きの常識上、このSさんが、どういう方なのか、斎藤さんは明かしていません。しかしいまでは、誰でも知っています。なぜなら、この“公任本”は、現在、九州国立博物館が所蔵しており、図録やウェブ上で、寄贈者の氏名が公になっているのです」(古書マニア)

“公任本”を、1億5000万円のキャッシュで購入した「Sさん」とは——“昭和最強の古美術商”、坂本五郎氏(1923〜2016)だった。

「坂本五郎さんといえば、1972年6月、ロンドンのクリスティーズ・オークションで、中国・元時代の『青花釉裏紅(せいかゆうりこう)』大壺を、1億8000万円で落札したことで、世界的ニュースになった古美術商です。東洋古磁器としては、世界最高金額でした」(古書マニア)

 これがきっかけで、中国古陶磁の評価が一挙に上がり、世界中で、高値で取り引きされるようになったのだ。

「坂本さんは、“公任本”を購入後、古筆学者の小松茂美さん(1925〜2010)に研究調査を依頼し、『今世紀最大の発見。1億5000万円は安すぎる』との、“お墨付き”を得ます。そして、私蔵するよりファンに見てもらいたいと、精巧な豪華複製本を作成。旺文社から限定1000部、ワンセット18万円で売り出されました。この複製は、いまでも古書価2万〜5万円で出回っています」(同)

 その後は、「断簡」として“解体”され、一部が1992年に東博の「和様の書」展に出品された。そして坂本氏没後の2018年、ほかの多くの名品と共に、九州国立博物館に寄贈され、いまに至っているというわけである。

 このとき寄贈を受けた九博の島谷弘幸館長(現・皇居三の丸尚蔵館館長)は、こう語っていた。

〈今回ご寄贈いただいた「公任本 古今和歌集」は思い出深い作品の一つですね。(略)このたび元の冊子のかたちにもどしてご寄贈いただきました。一度剥がしてしまったことを文化庁がどう考えるかですが、完本のまま保存していたら間違いなく重要文化財となるでしょう。〉(『目の眼』2018年9月号より)

 この話は、さすがに冒頭の“歴女”も知っていた。

「それまで、キントー様といえば、『和漢朗詠集』の撰者として有名でした。しかし、この一件以後、歴史ファンの間では、“1億5000万円の男”みたいに語るひとが増えたそうなんです。それほどの逸品が、国宝や重要文化財に指定されないのが残念でなりませんが……」

 今後、大河ドラマ『光る君へ』のなかで、町田啓太扮する藤原公任が、机上でなにかを書いているシーンがあったら……それは、1000年を生き抜いて1億5000万円の値が付く『古今和歌集』かもしれない。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部