2023年11月、老舗の大手芸能プロダクションの人事が、芸能界で驚きと納得を持って迎えられた。社長の座が、創業一族から現役の“ベテラン芸人”に譲られたのだ。大手プロで現役芸人が社長の座に就くのは異例中の異例。新社長はいったいどんな人物なのか? その本人、就任から半年を迎えるサンミュージックプロダクション代表取締役社長、ブッチャーブラザーズ・リッキーこと岡博之氏(65)に話を聞いた。岡社長は、実は広い人脈を持ち、多くの芸人の運命を変えた人物だった。今回のインタビューは、これまであまり語られてこなかった、昭和〜平成における「東京芸人の“裏面史”」であり、貴重な証言である。【華川富士也/ライター】(前・中・後編のうち「前編」)

日本で初めて“お笑いライブ”を開催

 岡社長と相方のぶっちゃあは、東映京都撮影所でエキストラをしていた時代に出会い、同撮影所を訪れたサンミュージックを代表するスター・森田健作から誘われて付き人として上京。しばらく森田の付き人を務めた後、付き人もサンミュージックもやめてしまう。

 時は1981年、世は漫才ブームに沸いていた。テレビではツービートやB&Bが大活躍している。ぶっちゃあと岡社長は「ブッチャーブラザーズ」を結成し、昼のバラエティ番組「笑ってる場合ですよ」(フジテレビ)で行われていたオーディション「お笑い君こそスターだ!」出演。5日間勝ち抜いてグランドチャンピオンに輝いた。この成果を手土産に芸人としてサンミュージックに所属することになった。

 この頃のブッチャーブラザーズで特筆すべきは、演芸場、劇場などの定席以外で日本初と見られる“お笑いライブ”を開催したことだ。

「日本で初めてお笑いライブをやったのは、僕らだと思ってます。当時、芸人が立つ舞台は、東京なら浅草や新宿などの寄席、ストリップの幕間、大阪なら吉本さんや松竹さんの劇場ぐらいだった。僕らは演劇人の自主公演みたいなことを芸人でやろうと考え、演劇やフリージャズの公演をやっていた小屋を借りました」

 雑誌「ぴあ」のはみ出しコーナーで出演者を募集すると、その応募者の中に飯塚実という青年がいた。後にたけし軍団に加入するダンカンだ。ライブで飯塚君のネタを見た2人は、その才能を買い「ザ・テレビ演芸」のネタ見せに連れて行った。

「“面白いやつがいます”と紹介してネタを見てもらったところ、気に入ってくれたのが漫画家で演芸業界に通じていた高信太郎さんでした。高さんが“面白いね。君は何をやりたい?”と聞いたら、飯塚君は“落語家になりたい”と。高さんは“じゃあ紹介しよう”とすぐに立川談志さんのところに連れて行き、あっさり弟子入りが認められました。その時にもらった芸名が立川談カン。今の芸名の元になる名前ですね。その後、談カンは談志さんの紹介でビートたけしさんの弟子になります。その経緯は有名ですね」

「ビートたけしさんが“おもしろそうだな。俺も行く”と」

 そして、この時、ダンカンがビートたけしの下へ移籍したことが、大きな展開を生む。「たけし軍団」結成につながっていくのだ。岡社長は言う。

「たけし軍団ができるきっかけは、僕らが作ったようなもんなんですよ」

 どういうことか?

「同じ事務所の太川陽介の野球チームが試合を組んでいたのに、太川らが地方から帰って来られないことがありました。僕らもメンバーだったので、人数を揃えるためダンカンに『たけしさんの他の弟子も連れて来て』と頼み、それからぶっちゃあがよく行っていた新宿の『ポプラ』という店の店員、芸人『カージナルス』のタカとポポを誘いました。後のガダルカナル・タカとつまみ枝豆です。あと東映京都撮影所時代からの仲間、俳優の徳井優にも声をかけました」

 この時点でタカと枝豆はビートたけしと接点がなかった。

「早朝の神宮のグラウンドで待っていたら、ダンカンとそのまんま東、大森うたえもん、松尾伴内らが来て、その後ろに、あれ? 高田文夫先生!? その横にえらいオーラがある人が……。え!たけしさん!? ダンカンによればニッポン放送の『ビートたけしのオールナイトニッポン』終わりで、ダンカンが“これからみんなで神宮外苑に野球しに行くんですよ”と言ったら、たけしさんが“おもしろそうだな。俺も行く”と来てくれたと。もうびっくりしました」

 携帯電話などない時代。突然現れたビートたけしに、ブッチャーブラザーズもカージナルスも驚いた。

野球チームが“たけし軍団”に

「みんなで野球をやって、その後、たけしさんが“朝メシ食べようか。新宿に行けば朝からやってる店があるだろう”って、みんなで国鉄(当時)に乗って移動しました。朝9時半ごろで乗客が多かったので、たけしさんは“バレるとマズいな”とタオルでほっかむりをしてたんですが、もちろん、すぐバレました(笑)」

 新宿でたけしや弟子たちと朝食を食べていた時のことだ。

「野球が楽しかったのでしょう。上機嫌のたけしさんは“俺も野球チーム作るか”と言い、後日、本当にメンバーを集めてチームを作りました。その面々が“たけし軍団”になっていったんです。タカとポポは入っていた事務所が倒産してポプラで働いていたんですが、これ以降、ダンカンや他の弟子たちが店によく顔を出すようになり、たけしさんも行くようになって、揃って弟子入りしました」

 ブッチャーブラザーズの2人が飯塚君の才能を買い、たけしの弟子になるきっかけを作らなければ、草野球にたけしが来ることはなく、タカ&枝豆が弟子になることも、たけし軍団があの形で結成されることもなかっただろう。2人は人知れず、昭和の芸能界における大きな“分岐点”を作っていた。

 ちなみに、ブッチャーブラザーズは「“お前らは野球が下手だから”と弟子入りを断られました(笑)。すでに事務所に入ってましたしね」

中編【「ザキヤマはめちゃくちゃまじめでした(笑)」 「サンミュージック社長」が養成スクール講師時代に衝撃を受けた“2人の生徒”とは?】に続く。

華川富士也(かがわ・ふじや)
ライター、構成作家、フォトグラファー。記録屋。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町ネタ、昭和ネタなどを得意とする。過去にはシリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。

デイリー新潮編集部