現役の芸人でありながら、サンミュージックプロダクションの代表取締役社長に就任した、ブッチャーブラザーズ・リッキーこと岡博之氏(65)。“東京お笑い界”に幅広い人脈を持つ岡社長にとって、ひときわ思い入れのある芸人がいるという。【華川富士也/ライター】(前・中・後編のうち「後編」)

中編【「ザキヤマはめちゃくちゃまじめでした(笑)」 「サンミュージック社長」が養成スクール講師時代に衝撃を受けた“2人の生徒”とは?】の続き

「僕以外の全員が“契約打ち切り”に賛成」

 岡社長が窮地から救い出し、その後、第一線で活躍し続ける芸人がいる。カンニング竹山隆範だ。実は竹山、サンミュージックからは一度見捨てられ、芸人として終わりかけていた。“リッキー預かり”としてなんとか生き残り、岡社長のアドバイスを元にキレ芸を完成させ、ブレイクにいたった。いまでこそワイドショーのコメンテーターやバラエティ番組で大活躍しているが、そうならない未来が紙一重で待ち構えていたのだ。

「初めて会ったのは、確か(ブッチャーブラザーズがかつて所属していた)人力舎時代の1992年でした。竹山が福岡から東京に出てきて、幼なじみの中島忠幸(故人)と『カンニング』を組んだばかりの頃です。当時はワタナベ(ワタナベエンターテインメント)さんに所属していて、若手に経験を積んでもらうために僕らがやっていた、お笑いライブのネタ見せに来たんです。博多弁の漫才をやってましたが、この時は中島の方がインパクトがあったんですね。“印象には残るけど、残念ながら面白くない”と言ったのをよく覚えてます(笑)」

 そんな竹山たちは、岡社長がサンミュージックに戻った話を聞きつけ、自ら「事務所に入れてください」と売り込んできたという。まだ数人しか芸人がいない時代だった。

「僕はカンニングの人柄が好きだったので歓迎し、実際にサンミュージック所属になったのですが、新しいネタを作らないし、テレビ、ラジオの出演もない、ライブで受けないと完全におちこぼれ状態でした。僕らとマネージャーは定期的に契約を継続するか否かの“クビ会議”を開いてまして、カンニングについては僕以外の全員が契約打ち切りに賛成しました」

 なんとカンニングは、サンミュージックから追い出されようとしていた。そこで救いの手を差し伸べたのが岡社長だった。

「僕らを慕って事務所に来ましたし、竹山は家が近かったからちょいちょい飲みに行ってたんですね。僕は“コイツは絶対に何か持ってる。サボってるだけや”と感じてたんです。だからその会議でこう言うたんです。“いらないなら、クビ前提でええから僕に預からせて”と。異存はなく、カンニングは“リッキー預かり芸人”となりました。とはいえ、ちょっと猶予をもらっただけ。早く結果を出さないと本当にクビでした」

「コレ、いけるんちゃうか!」

 実は岡社長、カンニングが契約解除になるのは避けられないと考え、前日から2人と打ち合わせをしていたという。

「“もう後はないぞ、本気でやるか?”と2人に確認しました。2人とも“本気でやります!”と答えたので、“会議で契約解除が伝えられても、黙って受け入れとけ”と伝えました。竹山は“借金があるから本気で”だったんですが、結果的にこの借金が竹山の“キレ芸”を産むきっかけになったんです」

“リッキー預かり芸人”として事務所に残ったカンニングに対し、岡社長は根本から漫才の型を変えることにした。

「それまでは上手な漫才をやろうとしていたんです。でも面白くない。普段から飲みに行って竹山の面白さを知っていたので、そういうところをいかしながら、どういうスタイルがいいのかイチから考えて作り直そう、という話をしました」

 当初、竹山らは世に出た“キレ芸漫才”とは全く違う、正統派の漫才をやっていたという。“キレ芸”が生まれたきっかけは、竹山のこんなグチだった。

「飲んでる時に自宅の大家さんへのグチを言い出したんです。“大家がとんでもないやつなんですよ。家賃をちょっとためたら、サラ金の取り立てみたいにドアにベタベタ貼り紙されたんです。あの大家、俺を追い出そうとしてるんですよ。酷いですよ”と。僕が預かってるし、ある程度の面倒は見ないと、と思ってたから“じゃあ大家さんにもう少し待ってくださいと話しに行くよ。で、どれぐらいためてるの?”と聞いたら、竹山の答えは“2年です”。中島と声を揃えて“2年!?”と驚きつつ、僕は頭を張って“ええ大家さんやないか!”とツッコんでました(笑)。図らずも完全なボケとツッコミの形になり、頭の中で“コレ、いけるんちゃうか!”と閃きました。竹山がグチったり怒りながら理不尽なことを言い出し、中島がツッコむ、これや!と」

「客席に下りてお客を殴るぐらいやれ!」

 その後、中島がキレるパターンも試して失敗に終わり、竹山がキレまくる型に落ち着く。実はその完成度を上げていくために参考にした芸人がいる。シティーボーイズだ。

「シティボイーズのライブで、きたろうさんと斉木しげるさんが話していると、遅れて現れた大竹まことさんが“お前らつまんねぇ話しやがって”と2人に言い出し、さらに客席に向かって“黙って見ているお前らもなんなんだ”とキレる。舞台上だけで収めず、客席に対してまでキレるのは、当時、かなり斬新だったんです。大竹さんがヒントとなり、もっと熱量を上げて突き抜けたことをした方がいいと考えて、竹山に“どうせ俺の漫才なんか見たくないやろ!って客にキレろ。客席に下りてお客を殴るぐらいやれ!俺がケツを拭く。どんどん怒れ!”と伝えました」

 竹山のキレ芸が形になってくるとテレビ番組に呼ばれるようになり、2003年に出演した「めちゃイケ」(フジテレビ)の「笑わず嫌い王」で、ついにカンニングはブレイクした。多忙を極める中、相方の中島は白血病のため04年12月から休養に入り、06年12月に亡くなったが、その後も竹山は「カンニング」を名乗っている。ある時期まで竹山が中島の遺族にギャラを渡し続けていたのは知る人ぞ知る話だ。

 また、毎年行っている単独ライブは人気が高く、チケットも入手困難になっている。「放送できない内容なんですけどね(笑)」(岡社長)

 カンニングと同じ時期にはヒロシもブレイクした。ダンディ坂野、カンニングらが屋台骨を支え、サンミュージックのお笑い部門は危機を乗り越えて継続した。以後、鳥居みゆき、小島よしお、スギちゃん、髭男爵、カズレーザー、ぺこぱなど、ブレイク芸人を次々と生み出している。

この記事は、
前編【「“たけし軍団”結成のきっかけは僕らが作ったようなもの」 サンミュージック社長に就任した「ブッチャーブラザーズ・リッキー」が明かす“東京芸人”秘話】
中編【「ザキヤマはめちゃくちゃまじめでした(笑)」 「サンミュージック社長」が養成スクール講師時代に衝撃を受けた“2人の生徒”とは?】
からの続きとなっています。

華川富士也(かがわ・ふじや)
ライター、構成作家、フォトグラファー。記録屋。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町ネタ、昭和ネタなどを得意とする。過去にはシリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。

デイリー新潮編集部