バランスの良い食事、適度な運動、そして精神的安寧。多くの人が、日々、心身の健康に気を使いアンチエイジングに励んでいる。だが、努力をし続けることで、果たして私たちは何歳まで生きようとしているのだろうか――。大宅賞作家が「老化の哲学」に迫る。【河合香織/ノンフィクション作家】

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 今から4千年前に書かれたとされる世界最古の物語に記されているのは、永遠の命を求めるギルガメシュという王の姿である。

 結局、ギルガメシュは求めたものを見つけられず、神々によって死を割り振られた人間に永遠の命はないことを知り、若返りの薬さえ手に入れられない。だが現代、この死すべき運命に、科学の力をもって対抗しようとする人たちがいる。

「人は500歳まで生きられる」

「私は死ななくてもすむようになるまで長生きしたい」

 このように発言したのは、Googleの投資部門責任者だったビル・マリス。Googleは寿命を劇的に延ばすことを目標とする研究所「カリコ」を2013年に設立、15億ドルを投じた。Googleのような企業が「不老不死」を投資対象にしたことは、一つの象徴的な出来事だろう。

一億総アンチエイジング社会

 寿命を延ばしたいという願いは、富豪や権力者だけが持つものではない。アンチエイジングのサプリメントが爆発的に売れ、老化予防に関する情報を目にしない日はない今の社会は、いわば一億総アンチエイジング社会といえそうだ。

 安倍政権時代には、一億総活躍社会と称して、少子高齢化を食い止め50年後も人口1億人を維持するという施策が打ち出されたこともあった。ただ、考え方を変えてみれば、たとえ「少子化」が改善されなくても、人口を大きく減らさない方法はある。それは老化を防止して、寿命を延ばすことだ。社会構造としての是非はさておき、単純に人口減少を食い止めることだけに目標を絞れば、老化を防止し、人が死なないようにすることによって達成できるかもしれない。

 とはいえ、どうすれば老化は治療できるのか。アンチエイジングに関する情報は巷に溢れているが、それはあまりに多岐にわたり、時にはよいとされることが相反したりして、何が本当なのか、どの情報が正しいのかさっぱり分からなくなる。

人間の最長寿命は…

 そこで私は、研究の最前線にいるノーベル賞級の科学者たちに話を聞くことで、現時点での確からしい老化予防や老化改善の情報を得たいと考えた。人は何歳まで生きられるのか。不老不死は実現できるのか。そんな思いから『老化は治療できるか』(文春新書)をまとめ、昨年11月に出版した。それは図らずも、「老化の哲学」を巡る思索の旅ともなった。

 そもそも現状で人は何歳まで生きられるのだろうか。高齢化に伴い最長寿命も延びているように思えるが、16年に英科学誌ネイチャーに掲載された論文によれば、世界40カ国以上の統計データから最長寿命は1990年代に頭打ちになったという。その上で、今のところ人間の最長寿命は115歳と結論付けられている。実際に、記録が残っている中で最も長く生きた人類は97年に亡くなったフランス人女性のジャンヌ・カルマンさん122歳である。この人物でさえ、娘が母親と入れ替わったのではないかという疑惑が噴出したこともある。

 それゆえに、実は最長寿命はそれほど延びないのではないかと考える科学者たちもいる。一方で、それはこれまでの科学や医学をもってしての話であり、今後の科学の発展によっては最長寿命も長くなるだろうという見方も存在する。

 実際に、最先端の研究現場を訪ねてみると、動物の寿命が延びたり、若返ったりする物質が見つかっていることがわかった。

日本の研究者が世界をリード

 例えば、注目されているのが老化細胞除去薬だ。まず老化細胞について知っておくべきは、加齢だけではなく、紫外線や放射線でDNAが傷つくことや、酸化ストレスによっても生じることだ。老化細胞が体内に蓄積されると慢性炎症が引き起こされ、体全体の老化の進み具合は早まる。

 実はこの老化細胞の研究は日本の研究者が世界をリードしている。東京大学医科学研究所所長の中西真教授は老化細胞研究の第一人者の一人である。中西教授の研究チームは老化細胞の生存に必要な酵素の一つGLS1(グルタミナーゼ1)を発見した。GLS1はアミノ酸の一種であるグルタミンをグルタミン酸に変える性質を持ち、この過程でアンモニアが作られる。これまでそのアンモニアは細胞の機能に不必要な「ごみ」だと思われていたが、実はこれこそが老化細胞の生存に必要なものだと中西教授は説明する。つまりアンモニアが生成される過程をブロックすれば、老化細胞は死んでいくというのだ。

 実際、マウスにGLS1阻害薬を注射すると、老化細胞が除去され、慢性炎症が抑え込まれた。結果、老化に伴って起こるさまざまな臓器などの機能低下、さらに高齢期の筋力低下も改善した。この実験の成果で注目すべきは、すでに老化したマウスの機能が回復したところにある。これは「老化予防というより、老化改善。つまり年を取ったあとでも効果があるということだ」と中西教授は話す。

老化改善が期待できる「NMN」

 実はこのGLS1阻害薬は、アメリカではがんの治療薬として治験が行われている。中西教授は「がんも老化細胞による慢性炎症が一因になっていると考えられるため、がんの予防薬にもできるのではないか」と言う。

 ただし、まだ人に対する老化改善のデータはないため、この薬の恩恵をわれわれが受けられるのは、少しだけ先のことであろう。

 一方で、私たちがすでに普通に手に入れることができるものでも、老化改善が期待されている物質がある。なかでも、最も注目されているものの一つがNMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)だ。

 NMNを前駆体とするNAD(ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド)は、あらゆる生命が「エネルギーを使う通貨」のように利用する必須の物質だ。老化・寿命の制御因子として知られるサーチュインの中のSIRT1(サーティー1)というタンパク質もNADを使って生存に必要な機能を回復する。このNADは加齢とともに全身で減少することが分かっており、NADの減少がさまざまな機能の低下につながる。そこでNADを増やす働きをするNMNをマウスに投与したところ、マウスで顕著な抗老化作用があることが明らかになった。

 NMNは人への臨床試験も多数行われており、インターネットでも買えることから、世界中で大ブームとなっている。NMNは価格の幅が広く、1カ月分で数万円と高額な製品もある上、国産もあれば中国など海外産もある。さらに、錠剤としてではなく、より効果があるとして点滴での投与を行うクリニックも登場している。通販で購入できるもののなかにはNMN成分が検出されないまがい物の製品もあり、昨年12月に「狂想曲」と朝日新聞が報道するほどの過熱ぶりだ。NMN研究のパイオニアの一人であるワシントン大学の今井眞一郎卓越教授でさえ、次のように警鐘を鳴らす。

「NMN点滴は逆にNADを壊してしまう可能性もあり、安全性がまだ分かっていないため、注意が必要です。また、NMNを長期に大量摂取すると、副作用があることも考えられます」

脳のアップロード

 GLS1阻害薬やNMNなどの登場は、老化の治療という人類の大きなテーマに光をもたらすものだろう。とはいえ、たとえ老化を治療できたとしても、それでも人にはいつか死が訪れることに変わりはない。

 そこで、これまで見てきたような分子生物学とは全く別のアプローチ、工学研究から「意識の不老不死」を実現させようとする人たちの研究も併せて紹介したい。

 例えば、脳のアップロードを行うことで、不老不死を実現させようとする東京大学大学院工学系研究科の渡邉正峰准教授の研究もその一つだ。

 渡邉准教授は土台となる「誰のものでもない」意識をあらかじめ宿す機械を用意して、そこに人間の脳を接続し、記憶を転送することで、最終的には「私」の意識を移し替えることを目指す。もしも安全に意識が機械に移植されれば、人間の脳が死を迎えたとしてもその人の意識は機械の中で生き続けることになると渡邉准教授は言う。まるでSFのような世界だが、渡邉准教授は「マインド・アップローディング(精神転送)」の要となる、侵襲型ブレインマシンインターフェイスに関連して、その技術開発と医療応用を行う新たなスタートアップ「RUTEN」を起業した。

 渡邉准教授の思い描く意識のアップロードという未来が実現すれば、不老不死の一つの形といえるかもしれない。果たして、脳のアップロードは人類に何をもたらすのか――。

老化しない動物、若返る動物も

「生老病死」。生まれ、老い、病気になって死んでいくことは避けられない苦しみだといわれてきた。

 だが、生物全般に目を向けると老化も死も必然ではない。老化することのないハダカデバネズミやカメ、何度でも若返って生まれ変わるベニクラゲが存在することも知られている。つまり、生物は進化の上での種の生存戦略として老化や死、あるいは老化しないことや死なないことを選択しているというわけだ。

 では、これまで紹介したような老化研究が進めば、人も老いない存在になり、「老病死」の苦しみから解放されることになるのだろうか。

長生きと幸せは別問題

 だが、そこには新たな問題も生じる。先の渡邉准教授も、脳のアップロードが可能になったとしても「天国のような楽園を用意することができた、とシンプルにはいえない。幸せであることはそれとは別問題で難しいと思っています」と話す。なぜなら完全なバーチャルの世界で生きることを人は望まない。できることならば、現世の人と共に暮らしていきたいはずだ、と。またバーチャルの中に社会ができても、そこで競争が起これば、みんなが幸せになることは難しいだろうという。

 確かに、幸せでないまま、苦しみながらでは、不老不死となること、いやそれ以前に寿命が延びること自体が苦痛になりかねない。

 世界各地から健康長寿の秘訣(ひけつ)を求めてジャーナリストが訪れるという、沖縄のある長寿村では、100歳に近い高齢者たちが仕事をし、自立して、人に、自然に囲まれて生きている。まさに楽園のように思えるが、私がその村に足を運び実際に話を聞いてみると「何のために生きているか分からない」「長生きしたいわけではない」と話す高齢者もいた。

 ずっと幸せなまま生きることは、永遠の命を手に入れるのと変わらないほど難しいことなのかもしれない。だから、未来永劫になど生きたくないと考える人たちもいるし、寿命が500歳になるなんて望まない人たちも少なくない。

 とはいえ、若くして死にたいかといえばそう考える人はあまりいないだろう。詰まるところ、われわれの願いは「程よく幸せに生きたい」というところに落ち着くのかもしれない。

120歳まで生きるなら何度も「思春期」が必要

 そのために必要なものとして「思春期」というキーワードを提示する研究者がいる。東京大学名誉教授で、帝京大学先端総合研究機構教授の岡ノ谷一夫氏だ。生物心理学が専門だが、老化や長寿を思春期という視点から読み解く。

 岡ノ谷教授は自身が長生きしたい理由を、「研究室の本棚にある本を全部読むだけで、あと100年はかかる。だから長生きしたいと思う」と話す。一方で、「どれだけ健康長寿でいたとしても、その本を読みたいという好奇心や欲望を同じレベルで持ち続けるのは難しいかもしれない」。つまり幸せに生き続けるためには、肉体的に健康であるだけではなく、精神的に豊かである必要がある――そのために大切なのは思春期ではないかと岡ノ谷教授は言うのだ。

「社会環境は常に変化していきますから、社会的な動物であるほど、社会の掟を学ぶ思春期・青年期の段階が重要となってきます。どれだけ体が健康でも、社会の変化に適応できなければ幸せには生きられない」

 しかも老化すると、行動の多様性が減り、社会への関心が失われ、孤立しがちになると岡ノ谷教授は言う。

「未来」のために「今」が犠牲に

「老化を治療してかつ楽しく生きるためには、胸を焦がすような思春期・青年期が必要だと思います。120歳まで生きられるとしたら、40代、60代、80代と3度くらいは思春期性を取り戻したい。つまり社会との距離をもう一度学び直すことで、生きながら生まれ変わるということです」

 老化を治療して健康なままピンピンコロリと死を迎えられる社会が理想であることに異論を差し挟む人は少ないはずだ。しかし、科学技術の発展の速さに、われわれの「老化の哲学」は追い付けているだろうか。

 一億総アンチエイジング社会の中で、われわれは老化防止に過剰に取りつかれ、右往左往し、健康にいいと聞けば、あれをやろうこれをやろうとその情報の確かさと関係なく飛びついてしまう。私の知人の中には、長生きしたいがために、ストレスがかかるからと会社勤めを忌避し、毎日数時間の運動をこなし、肉を食べず、できるだけ人との接触を避けて生きている人まで存在する。健康や長寿にとらわれ過ぎている人たちは少なくない。

 それは言い換えれば、「未来」を生きようとしている行為とはいえないだろうか。長生きしたところで幸せかは分からない。沖縄の村の長寿の先達たちはそう口にしていた。しかし、私たちはその不確かな未来に向けて、時に「今」を犠牲にしつつ老化防止に励み、狂奔するのをやめることができないでいる。

 老化を病と捉えるならば、科学技術の発達によってその病が治療できることは喜ばしいことだろう。一方で、程度の差こそあれ、老化に抗うことに過剰にとらわれるという、「未来病」とでも言うべき新種の病に社会がかかっているようにも見える。われわれはそんな時代を生きているのかもしれない。

河合香織(かわいかおり)
ノンフィクション作家。1974年生まれ。障害者の性の問題を扱った『セックスボランティア』がベストセラーに。2018年刊行の『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』で、第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第18回新潮ドキュメント賞をダブル受賞。最新刊は、昨年11月に出版した『老化は治療できるか』。

「週刊新潮」2024年2月8日号 掲載