歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

5回の戦いがあった川中島合戦

 武田信玄の宿敵として知られるのが、越後の大名・上杉謙信です。信玄と謙信との戦いで有名なものは、川中島(長野県長野市)合戦であり、同地域において、5回の戦があったと言われています。

 信濃に進出し、諸城を攻略していく武田軍。葛尾城城主の村上義清も、信玄との対決により、信濃を追われますが、彼が頼ったのが、謙信でした。謙信は義清の要請により、信濃に出兵(1553年8月)。初めて、両雄は対決するのですが(第1次川中島合戦)、信玄は謙信軍との「直接対決」は避けています。謙信の軍勢は川中島に進出し、武田方の城(荒砥城など)を攻略していきます。

 一方、武田軍も荒砥城に攻撃を仕掛け、上杉勢を討ち取っているのです(9月13日)。上杉軍は武田に退路を絶たれるのを避けるため、2日後に撤退しています(上洛の直前ということもあり、謙信自身は信濃に出陣していないとの説もあります)。上杉氏は、村上義清の本領を回復するという目的を達することはできませんでした。また、第1次合戦は、局地的なものでありました。

 第2次川中島合戦は、天文24年(1555)4月から始まりますが、同月、謙信は信濃善光寺に着陣します。善光寺の別当(栗田氏)が、武田の調略に応じ、反旗を翻したことが理由と考えられます(信玄は3月に甲斐を出陣)。栗田氏は旭山城に籠城。一方の上杉軍は、旭山城の向かいに葛山城(長野市)を築きます。信玄方には駿河の今川義元の援軍がいましたが、上杉方の葛山城構築により、そう簡単に攻撃もできなくなり、両軍は膠着状態に陥るのです。

 7月19日になり、犀川にて両軍は衝突しますが、どちらが勝ったのか、負けたのかは不明です。その後は衝突はなく、200日に及ぶ対陣があったと言われています。この第2次合戦においても、信玄は上杉軍との決戦を避けようとしたとされます。長期の対陣というのは、士気も低下しますし、兵糧の補給にも苦労するものです。それ故に、信玄はこの戦をできるだけ早く切り上げたかったようで、7月上旬には、今川義元に和睦の仲介を依頼しています。和睦交渉は難航したようですが、同年閏10月には合意に達します。

 和睦の条件は、旭山城(武田方)を破却すること、越後に亡命していた北信濃国衆の井上・須田・島津・市川氏らの本領復帰、武田と上杉氏の境界を犀川とすることなどでした。