考えを改めた信長

 この時、武田軍は、明知城など18の城砦を攻略しました。同年5月には、徳川に奪われていた高天神城(城主は小笠原氏助)を奪還すべく、勝頼は出陣。5月12日より、攻撃が開始されます。武田軍は2万5千という大軍でした。同月下旬には、落城まで10日も経たないだろうと勝頼が言うほど、籠城方を追い詰めます(5月28日)。

 籠城方は、降伏しますという意向を示してきますが、勝頼はこれを許さず(籠城方による開城交渉は、援軍が来るまでの時間稼ぎと見る説もある)、高天神城は窮地に陥ります。

 城からは、家康への援軍要請もありましたが、すぐに援軍は派遣されませんでした。家康としては信長の加勢を待って、救助に向かおうと考えていたようです。だが、信長も、越前の件などもあり、すぐに動ける状態ではありませんでした。信長が岐阜を出陣したのは、6月14日になってからのことです。 

 3日後、信長は三河国の吉田城に到着。その後(6月19日)、遠江国の今切の渡に到達しますが、そこに高天神城が落城したとの報告が入ります(落城は6月17日)。三河の吉田に引き上げた信長は、そこで家康と対面するのです。武田と戦ができなかったことを信長は無念に思っていたようです(『信長公記』)。信長はまたしても無念の想いを抱えて、岐阜に帰っていくのでした。

 東美濃の城を攻略され、そして今、高天神城も武田の手に・・・。武田信玄の後継は大したことはないと、当初は考えていた信長でしたが、ここに来て、考えを改めます。「四郎(勝頼)は若輩ながらも、信玄の掟を守り、表裏を心得た者だ。油断してはいけない」(天正2年6月29日付、織田信長の上杉謙信宛書状)と、勝頼を警戒するまでになるのです。

 優秀な2代目社長ほど、早急に結果を求めて失敗するとの声もありますが、勝頼は、当初は敵勢に攻勢をかけられても、焦らず対応。翌年に、織田・徳川方の様子を見て、一気に形勢を逆転させたのです。「二代目社長は守破離を基本に改革すべし」(株式会社 結コンサルティング、今週の提言2021・9・28)の言葉通り、事業継承後の早急な改革は、組織をガタガタにしてしまうので、時と場合にもよりますが、最初はイケイケドンドンにならない方が良いと言えるでしょう。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

(濱田 浩一郎)