北条との同盟が崩れる

 北条氏政は勝頼に不信感を抱き、最終的に武田と北条の同盟は崩れます。北条氏は武田の宿敵・徳川家康と手を結び、武田に攻撃を仕掛けてくるようになるのです(北条氏は信長とも同盟を結ぶ)。「勝頼包囲網」が形成されてしまったと言えましょう。

 勝頼は同盟を結んでいた常陸の佐竹義重を通じて、信長との同盟を模索しますが、信長は取り合いませんでした。大坂本願寺降伏(1580年)、徳川方による遠江・高天神城の攻撃が進展するなか、信長は勝頼と同盟する価値なしと判断していたのです。そして、天正9年(1581)3月、高天神城はついに落城します。勝頼は落城寸前の高天神城救援に駆け付けることはありませんでした。

 駿河・伊豆における北条氏との抗争の激化、そして、信長と和睦したいという勝頼の想いがあり、救援に向かわなかったと推測されます(信長との和睦が成立すれば、家康とも和睦できる。そうすれば、高天神城を救うことができると考えていたか)。信長は、勝頼が高天神城を見捨てれば、信頼を失い、求心力は低下すると踏んでいました。そして、1・2年のうちに武田領国に攻め込む心算でした。もし、勝頼が援軍に駆け付けてきたら、これを撃滅し、領国を併呑する積もりだったのです。

 信長の予想は的中しました。明けて、天正10年(1582)1月には、勝頼の妹婿で信濃国の有力国衆・木曾義昌が織田方に内通します。これを好機と見た信長は、家康とともに、武田領国に侵攻。武田一族の穴山梅雪も武田を裏切ります。武田方の諸城は次々と降伏、もしくは攻略されていきます。

 進退極まった勝頼は、小山田信茂を頼り、再起を図りますが、小山田も離反。ついに、田野(甲州市)に追い詰められて、一族とともに、勝頼は自害して果てるのです(3月11日)。

 武田家の滅亡は何れは避けられなかったことかもしれません。しかし、勝頼が無理をしてでも、高天神城の後詰に駆け付けていれば、雪崩のように急激な滅亡は避けられた可能性はあります。

「予期せぬ展開がリーダーの信頼感を失わせるきっかけになる」とマルクス・C・ハセル博士は述べていますが(トラヴィス・オールーク「困難なときこそ試されるリーダーの信頼力」『HAYS』)、それが、勝頼にとっては、高天神城に救援に向かわなかったことから来る信頼低下でした。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

(濱田 浩一郎)