帯刀が養子となった小松家とは?

 ここで、小松家について触れておこう。平清盛の嫡男である平重盛は、六波羅小松第を居所としていたため、小松殿ないし小松内大臣と呼ばれていた。その重盛の孫高清の子清重が大隅国大隅郡禰寝(ねじめ)院に下向して、禰寝氏を呼称し始めたのだ。

 戦国末期、島津氏に臣従して豊臣秀吉による島津征伐後の文禄4年(1595)に薩摩国日置郡吉利郷(現日置市日吉町)に移封された。家老を務めた小松家24代清香の代の宝暦元年(1761)、小松と改姓している。小松帯刀は、29代で3人目の家老であった。

 義父である28代清猷について、文政10年(1827)に生まれ、斉彬によって文武に優れた英邁さを愛され、嘉永5年(1862)に小姓組番頭に、そして、翌6年(1853)に琉球守衛の御軍役総頭取に抜擢された。安政2年4月、琉球国守衛として赴任後、わずか2カ月弱の6月に現地で急死したのだ。まだ、29歳の若さだった。

 次回は、文久期(1861〜4)の激動期、藩の最高権力者である島津久光を補佐しながら、国事周旋を繰り広げ、また、生麦事件・薩英戦争という薩摩藩にとって最大の国難を乗り切り、久光の朝政参与を実現した小松帯刀の活躍を追ってみよう。

(町田 明広)