大胆な小松の戦略転換

 孝明天皇から厚い信頼を得ていた慶喜は、着々と準備を進め、慶応2年12月5日、在京諸侯の推戴を得たとして将軍に就任した。ここでも、それを阻止しようとした薩摩藩は慶喜に敗北した。政局運営を安定させたい慶喜は方針転換を計り、有力諸侯との連携を模索した。そこで小松は、方針を変えて当面は朝廷工作を控え、直接幕府と交渉することを決断したのだ。

 12月25日、慶喜の最大の庇護者である孝明天皇が天然痘で薨去された。慶喜は諸侯との連携をますます意識せざるを得ず、股肱の臣である原市之進を小松の許にしばしば派遣して、明治天皇の践祚を機に行われた大赦や、五卿の京都復帰などについて意見調整をさせた。

 慶喜サイドからのアプローチによって、慶喜が西国雄藩と連携をして政局運営を図るのではないかとの希望を薩摩藩側に抱かせた。折しも、長州藩処分問題に加え、兵庫開港問題が切迫していたため、小松はこの機会を逃さず、諸侯会議を至急開催して外交権を幕府から朝廷に移管することによって、なんとか廃幕に持ち込もうと画策したのだ。

慶喜の裏切りと四侯会議の開催

 慶応3年(1867)2月6・7日、慶喜は仏公使ロッシュと会見し、連携して薩長にあたることを約束して兵庫開港を明言した。24日には、諸藩に対してこの問題を諮問し、3月10日までに回答を求め、かつ上京を命じた。しかし、慶喜は3月5日に独断で開港勅許を奏請し、22日にも重ねて奏請したものの、朝議はいずれも拒否したのだ。

 慶喜は、3月28日に英仏公使・蘭総領事、4月1日に米公使を大坂城で正式に引見し、条約履行を明言した。これは明らかに、諸侯をないがしろにした裏切り行為であり、薩摩藩はこの段階で慶喜を見限っており、四侯会議はこうした背景の下で開催されることになった。

 西郷隆盛は慶応3年2月1日に帰藩し、久光に上京を促して賛同を獲得した。久光は700人の藩兵を率いて、4月12日に入京した。遅れて、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂も上京し、ここに四侯会議が開かれた。

 しかし、会議はわずか3回のみで、二条城で慶喜に謁見したのも5月14・19・21日の3日間であり、容堂に至っては14日のみ出席であった。容堂は相変わらず、肝心なところでこうした不誠実な態度を示した。小松が意図したものとはほど遠く、これ以降、慶喜支持に回る春嶽・容堂とあくまでも慶喜排除を志向する久光・宗城は対立を深めたのだ。