薩摩藩の武力発動の決定とその挫折

 四侯会議後、久光と小松は武力発動を視野にいれ、多数の藩兵を上京させた上で、その武力を圧力装置として慶喜に将軍辞職を迫り、朝廷に慶喜辞職の勅命を要求することを企図した。

 しかし、一歩間違えば幕府との戦争は避けられず、武力衝突に向けた対策も同時に求められた。無血による王政復古を志向しながら、一方で、戦争も辞さないという姿勢である。久光は藩邸内に潜入中の長州藩士山県有朋らにその意を伝達し、山県は、薩摩藩は武力討幕を決意したと判断したのだ。

 久光は6月18日に藩主茂久に書簡を発し、まずは4軍艦をもって1個大隊を派兵し、派兵船が戻り次第、迅速に堂々と出馬するようにと、茂久に率兵上京を要請した。茂久に出馬を命じ、一方では派兵後としており曖昧な指示となった。

 久光や小松を始めとする在京要路にとって、一気に武力討幕といった思惑まではなく、あくまでも兵力を増した上で、圧力として使うことを主眼とした。いずれにしろ、久光は幕府との対決姿勢の旗幟を鮮明にしたのだ。しかし、藩主父子の意に反して、薩摩藩内には率兵上京への反対意見が渦巻いて進展しなかった。