サトウの上海・北京時代の活動

 1862年(文久2)1月、サトウは上海に到着し、2ヶ月半の間、領事館の仕事を補助した。このころは、太平天国の乱のまっただ中であった。太平天国とは、中国清朝末期、洪秀全を指導者とする上帝会を中心に建てられた国のことである。1851年に広西省桂平県金田村に挙兵し、新国家樹立を宣言して、1853年には南京を占領、天京と改め首都とした。キリスト教思想のもとに、清朝打倒・土地私有反対・経済的平等をうたったが、1864年、曽国藩・李鴻章・ゴードンらの連合軍によって鎮圧された。

 サトウは上海滞在時、太平天国軍や英仏軍、そして外人部隊の常勝軍の動向を、日記に書き留めている。そして、3月に北京に向かい、4月には北京公使館に到着した。その後の4ヶ月間、中国語書記官ウェートの監督の下、日本語学習の準備として、漢字や漢文などの学習に専念したのだ。その間、乗馬で旧跡を探訪するなど、北京滞在を謳歌している。

 次回は、いよいよ日本に赴いたサトウの動向を、生麦事件、四国艦隊下関砲撃事件、鎌倉事件を中心に追っていこう。

(町田 明広)